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東京話湾要塞の一翼を担う千代ケ崎砲台2 [煉瓦研究ネットワーク東京]

100千代ケ崎砲台配置図.jpg大切なことを申し上げていませんでした。

千代ケ崎砲台は、戦後いったん民間に払い下げられた後、その一部を国が買い戻して海上自衛隊の通信施設が建設されました。

現在施設は撤去されていますが、防衛施設庁の管理下にあり一般公開はされていませんので、この記事をお読みになられて「よし行ってみるか!」と思われても、残念ながら中に立ち入ることはできません。


横須賀市教育委員会さんでは、今後見学会の開催を計画されるようなので、時々横須賀市のHPを覗いてみていただければと思います。


 

前回書き忘れましたが、ある痕跡を探して柵門に至る軍道の海岸沿いの入口付近を詳細に観察しましたが、なんの痕跡も見つけられませんでした。

何を探したかというと、今までの経験から軍道の入り口にはコンクリート製、あるいは木造の歩哨所があったのではと考えたからです。


107柵門.jpgさて、時空を柵門入口まで戻しましょう。

まずは上の地図をご覧ください。

上部中央に柵門があり、門を入ると正面に土塁が築かれています。ここの大部分の地上施設は、山を崩して切土で造られていますが、柵門正面の土塁盛土で造られています。

土塁を地図上で下に進むと、その先で分岐して左に緩やかに坂を下って露天塁道へとつながり、右手に進んで坂を上ると砲座の上の空間に登ることができます。(次の写真

112土塁左回り.jpg

今回は、土塁を地図上の上から左に回り込んで進みます。緩やかな下りの坂道を進むと、土塁を右から巡ってきた道と合流し、露天塁道に繋がっています。

114塁道入口.jpgさて、地図から離れて実際の塁道に降り立ち、進んでいきましょう。右の写真をご覧ください。

右にカーブしながら下っていくと、その先で左に大きな弧を描いて、露天塁道が続いています。

カーブの終わる手前左手に、第三砲座に附属する第三弾薬庫に繋がる交通路があります。

交通路の天井はアーチを描いていて入口は煉瓦積みで施工されているものの、内部のアーチ部分はコンクリート造になっています。

118第三弾薬庫交通路.jpg

さらにこの交通路はカーブしている塁道に対して斜めに開口部が切られているため、アーチは側壁に対して渦を巻くように積まれる斜架拱(ねじりまんぽ)で積まれています。

斜架拱は、関西、特に岐阜、京都大阪などに多く見られる技法で、関東では、旧信越本線の横川⇔軽井沢間の隧道二か所で使用例が知られているのみで、ここ千代ケ崎砲台に用いられていたことは大発見です。千代ケ崎にはこの他二か所の合計三か所に斜架拱が用いられています。

136左翼観測所交通路入口斜架拱.jpg

斜架拱については、過去に書いたこちらの記事をご覧ください。

⇒ねじりまんぽ1 http://kotarobs.blog.so-net.ne.jp/2015-11-20

⇒ねじりまんぽ2 http://kotarobs.blog.so-net.ne.jp/2015-12-04

⇒ねじりまんぽ3 http://kotarobs.blog.so-net.ne.jp/2015-12-31

⇒その他関連記事 http://kotarobs.blog.so-net.ne.jp/2016-07-10


この交通路の少し先の右手に、雨水を貯める濾過槽と貯水槽が並んでいます。雨水は塁道の端に埋め込まれた排水路を流れてくると、貯水槽に誘導され礫や砂でろ過されて、その隣の貯水槽に貯まります。排水路には砂が充填されていて、流路にもろ過機能をもたせていました。

排水は二系統あり、油分のある砲座や弾薬庫の排水(汚水)は、生活用水に使用する雨水の流路とは別系統の流路で排水されるように設計されています。

119第二貯水所濾過槽.jpg

120第二貯水所貯水槽汲み上げ口.jpg

濾過槽・貯水槽の対面側には、第三棲息掩蔽部があります。

側壁から煉瓦一個分程度後退させて設けられており、全面に焼過煉瓦が使用され、雨水の侵入を防いでいます。次の写真は全く同じつくりの第一棲息掩蔽部のものです。

131第一棲息掩蔽部.jpg

中央の出入り口と左右の窓の上部は小さなアーチを描いており、オランダ積みで煉瓦が積まれています。内部に入ると天井部分の煉瓦積みは入口のみで、その奥はコンクリートで施工されている点は、前述の交通路と同じで、非常に興味深いところです。

この地点から塁道の前方にを見渡すと、露天空間と隧道が交互に続いていて、光の届く明るい露天部分と、暗い隧道部分が織り成す明暗は、なんとも不思議な雰囲気を醸し出しています。

117塁道隧道部露天部の連続.jpg

この景色を見た瞬間、北海道M38君で駆け抜けたときに立ち寄った帯広の北海道ホテルのロビーに隣接するチャペルを連想してしまいました。雰囲気がよく似ていますね。

露天塁道の被覆壁は、柵門の石垣と同じく房州石で積まれています。

次の写真は北海道ホテルのチャペルの様子です。

2013.09.06帯広.jpg

東京湾要塞は、その建設時期により依拠する建設要領から、明治10年代、明治20年代前半、明治20年代後半に分類されます。

明治10年代に類する猿島砲台の棲息掩蔽部が次の写真です。

141猿島棲息掩蔽部.jpg

わかりづらい写真しかなかったのですが、2013年に猿島を訪問した時のものです。

石造りの側壁からやや突出するように棲息掩蔽部の入り口が作られ、煉瓦はフランス積みになっています。

次の写真は夏島砲台の棲息掩蔽部ですが、こちらは明治20年代前半に類され、棲息掩蔽部は、石積みの側壁から風雨を避けるため、煉瓦でアーチを造って入口と窓は大きく後退しています。またこの時期の特徴は、中央の入り口と左右の窓の上部はアーチではなく横に一本石を渡して造られています。煉瓦は一部イギリス積みが用いられているところもありますが、大部分はオランダ積みです。煉瓦の積み方については、以下の記事をご参照ください。

http://brick.main.jp/knowledge.html

夏島2.jpg
そしてここ千代ケ崎砲台の特徴は、明治20年代後半に類されます。

第三棲息掩蔽部は、海上自衛隊の施設の痕跡で、アルミのドアが付けられて、入ることはできません。次の写真は第一棲息掩蔽部のもので、比較のため改めて掲出しました。

131第一棲息掩蔽部.jpg

第三棲息掩蔽部のすぐ先で隧道が始まります。隧道の入り口は、対候性を考慮して、焼過煉瓦をほぼ45度に配して積まれています。この二等辺三角形を描くように焼過煉瓦を用いられるのは、隧道の入り口部分だけではなく、濾過槽の入り口など、露天部分に面する様々な部位に用いられています。

122焼き過ぎ煉瓦の配置.jpg

121焼き過ぎ煉瓦の配置.jpg

隧道の中央部分に、第三砲台と第二砲台を結ぶ高塁道に繋がる交通路と、第二弾薬庫があります。

弾薬庫は前室と後室に分かれていて、後室には交通路から入るようになっています。

前室と後室の間には細い通路状の点灯室があり、前室、後室それぞれに二か所窓が開いていて、その窓越しにオイルランプで灯りをとっていました。火気厳禁の火薬を扱うことから設けられた工夫ですね。

次の写真は、前後の弾薬庫の間にある点灯室です。

123第一弾薬庫横通路.jpg

さらに点灯窓が次の写真です。後室ろから露天隧道を覗いたところです。点灯窓が3つあるとはいえ、さぞかし暗かったことでしょう。壁や天井が白く塗られているのは、灯りを反射して少しでも明るくするためでしょう。棲息掩蔽部はこのように白くは塗られていません。

124第一弾薬庫灯り取り用窓2.jpg

後室の天井には二か所に丸い穴が開いていて、真下にも数十センチの深さで丸く穴が開いています。ここは揚弾井と呼ばれ、揚弾機が据え付けられていて、ここから砲弾を引き上げて、砲座に運ばれたようです。

次の写真は、床に穿たれて凹部分です。

125第一弾薬庫揚弾機基部.jpg

次の写真は、天井に穿たれた穴を見上げたところです。

穴の先に見えている一文字のようなものは、揚弾機の痕跡です。

126第一弾薬庫揚弾機天井.jpg

次の写真が高塁道(弾薬庫の上)から揚弾井を覗いたところです。

127揚弾井.jpg
127揚弾井2.jpg

天井部分には、揚弾機を据え付けた跡が残っていますが、終戦直後の混乱期に、金属性のものはみな持ち去られたようで、跡が残るのみです。

高塁道を揚弾井を越えて先に進むと、砲座に出られるようになっています。砲座は2つ並列に並んでいるものが第一砲座から第三砲座まで3か所、計6門の28糎榴弾砲が配備されていました。

128第一砲座2.jpg

さて、砲座の様子は後回しにして、塁道に戻ります。

第二弾薬庫のある隧道を抜けて露天部分に出ると、第二棲息掩蔽部があります。ここの作りは、手前にあった第三棲息掩蔽部と全く同じ造りになっています。

第二棲息掩蔽部に入って内部から入り口を振り返ると、左右の下側に換気用の吸気口があいています。入口側から入ってきた空気は、一番奥の天井部分に地上に続くスリットが設けられて排気されています。特にファンなどを設けた強制排気ではなく、負圧を利用した自然排気です。一昔前の電車の天井についたベンチレーターと同じで、地上部に顔をだした排気口に風が吹くと排気口内に負圧が生じて、内部の空気が自然に吸い出されます。海に近く、風が止むことは少ない土地柄から、これで十分だったのでしょう。

130第二棲息掩蔽部吸気口.jpg

次の写真は、地上部部にある排気口です。実際は上部が地面に顔を出しているだけです。

139地下施設外部排気口.jpg 

さらに二つ目の隧道に入ると、左手には第一弾薬庫があります。ここも第二弾薬庫と造りは同じです。さらに進むと露天部分に出て第一棲息掩蔽部がありますが、ここも第三、第二と同じ造りです。

注目すべきは、ここの吸気口に単弁の桜の刻印が残されていました。

入口の井戸に残っていた複弁の刻印と同じく小菅集治監で焼かれた煉瓦です。残念なが単弁と複弁の違いは判っていません。

140棲息掩蔽部に残る単弁桜の刻印.jpg

第一棲息掩蔽部の先は、右翼観測所・陸正面砲台に続く隧道となり、緩やかなカーブを描いて上り坂になっています。わずか数十メートルとはいえ、カーブしながらの上り坂のトンネルを穿つというのは、高度な技術があったのですね。

この隧道の出口手前に第一貯水槽と濾過槽があります。

この濾過槽のアーチも隧道がカーブしていることから、斜架拱で積まれています。

さらに隧道の出口部分も斜架拱で積まれています。

134右翼観測所連絡隧道出口斜架拱角度.jpg

ここで起拱角(煉瓦の積まれたねじりの角度)と隧道の斜架角(交差する角度)がどういう関係になっているのでしょうか。

斜架角をθ、起拱角をβとすると、以前にもアップしましたが、次の関係が成り立ちます。

tanβ=2/(πtanθ)

100起拱角の図面.jpg右翼観測所方面出口の斜架角は、地図から読み取ると69度(図の59度は誤り )です。

上の式にこの角度を当てはめると、起拱角の理論値は、13.7度となります。

実際の起拱角をスマホの傾斜計で図ると18.9度となりますので、理論値よりもねじれが大きいことが判ります。


もう一か所、最初に戻って第三砲台に繋がる交通路の斜架拱について検証してみましょう。

斜架角は、地図から読み取ると、78.5度です。

上の式に当てはめると、起拱角の理論値は7.4度となります。

スマホの傾斜計は13.3度を示していますから、こちらも理論値よりもねじれが大きいことが判ります。

さてさて、残るは砲台上部の様子ですが、結構な分量になってしまったので、一度ここで区切らせていただきたいと思います。

残りもできるだけ急いでアップしますね。



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泉佐野市『親子防災教室』のお知らせと東京湾要塞の一翼を担う千代ケ崎砲台1 [煉瓦研究ネットワーク東京]

2017.01.20親子防災教室blog.jpgなかなかアップできず、月一ペースを守ることもままなりませんが、ぼちぼち続けていきますので、記事が更新されていたら、覗いてみていただければ幸いです。


 

さてさて、326日に泉佐野市で小学生とその保護者を対象とした『春休み特別企画 ボーイスカウト流サバイバル術 親子で学ぶいざという時の身の守り方』をやらせていただきます。


 

ソネブロのご縁があって、hatumi30331さんのご紹介で最初に防災に関するセミナーをやらせていただいたのが20157月、早いものでもう2年近く経ってしまいました。


ここでまたご縁があって、泉佐野市さんでセミナーをやらせていただくことになりました。当初2月に大阪へとある調査研究・・・もちろん『煉瓦です』・・・のために行く予定に合わせて、前回同様大人向けのセミナーを企画しましたが、会場の都合で3月に予定変更となり、せっかくだったら春休みに合わせて親子で学ぶ防災教室にしてはどうかと提案させていただき、このような企画になりました。よろしければ親戚のお子様をリクルートしてでもご参加いただければと思います。絶対面白いと思います(^^)/



さて、先日国の史跡指定を受けた千代ケ崎砲台を見学させていただきました。



千代ケ崎砲台は、首都東京を守るために設けられた東京湾要塞の一翼を担うもので、明治時代に日本各地につくられた要塞の中では比較的後期のものとなります。

100浦賀駅.jpg東京湾要塞の建設は1876年(明治9年)に、東京湾入り口の富津岬と観音崎を結ぶ線を防御線として、まず観音崎に陸軍が砲台の建設を始めました。


ここ千代ケ崎には江戸時代に造られた平根山台場がありましたが、そこを包含して千代ケ崎砲台は建設されました。観音崎砲台の援助と浦賀湾前面海域防御、さらに久里浜に上陸した敵に対する防御が主な任務です。



1892 (明治25126日)に起工し、1895年(明治2825日)に竣工したといいますから、23か月かかっています。

周辺には江戸時代に灯台の役目を果たした燈明堂があり、建物が復元されています。

今回は浦賀駅から約3kmを、ぶらぶらと燈明台のある燈明崎まで歩きました。

101浦賀の渡し.jpg

以前、全国をまたにかけて走り回る煉瓦ハンターのエ○板さんが、煉瓦沼にはまり込むきっかけとなったのが、ここ浦賀の煉瓦造りの乾ドック(現住友重機械工業横須賀造船所浦賀艦船工場)です。残念ながらドックの周りに巡らされた煉瓦塀は取り壊されていて、新しい壁になっていました。あの刻印のあった煉瓦はどこに行ってしまったのでしょう。


102煉瓦ドック跡.jpgここだけでなく、すでに今まで歩いてきたあちこちの煉瓦が、どんどん失われていっている状況に焦燥感を感じています。

先日ある方とお話しをしていて煉瓦の話題になったときに「煉瓦のどこがおもしろいんだ?」、また「煉瓦が考古学? 考古学は土器や石器を発掘するものだろう!?」とも言われました。近代産業文化遺産としての煉瓦が考古学の対象になってきたのは、ここ数年のことと思います。まだまだ、近代日本の曙の時代である明治、そしてようやく日が昇り始めた大正、昭和のことをしっかり調べて記録し、後世に伝えていくことは重要なことだと思います。

高々100年ちょっと前のことが謎だらけ、用いられた技術も伝承されずに廃れてしまったものもあります。いろいろな資料を集め、点と点を線で結び、線と線で形を作って、失われたものの謎を解いていく面白さは、まさに考古学の醍醐味ともいえるでしょう。

一人でも多くの方に、近代産業文化遺産としての煉瓦の魅力に気づいていただき、次代まで守り伝えていきたいものです。
105燈明崎.jpg

燈明崎では、ちょっとした遺構を探して急峻な崩れやすい粘土質の山肌を藪漕ぎをして数十分歩き回りました。

そういえば昨年大津と山科の間の山を、明治時代初期の測量石標を探して小雪舞う中藪漕ぎをしてから一年たってしまったんですね。燈明崎を訪れたときは、小春日和で完全防寒対策のいで立ちでは汗をかくくらいの陽気でした。

104燈明台.jpg



 

106軍道入口.jpg燈明崎から少し浦賀駅方面に戻ると、左に上っていく分岐があります。

道幅4m程度の陸軍が切り開いた軍道で、分岐から標高差約50mをだらだらと登っていくと、ほどなくして両側が房州鋸山で切り出された石材で築かれた柵門にたどり着きます。

ここには3か所に合計6基の28cm榴弾砲座があり、地下に降りると砲側弾薬庫、棲息掩蔽部などの諸施設があります。

さらにその先には右翼観測所のほか、臼砲、加農砲、機関砲からなる陸正面防御砲台がありますが、現在は私有地のため、立ち入ることはできません。


(出典 横須賀市教育委員会発行『史跡東京湾要塞跡 猿島砲台跡 千代ケ崎砲台跡』)

ここに設置された28cm榴弾砲は、1884年(明治17年)にイタリアの技術と鋳鉄を使って大阪砲兵工廠で試作され、のちに1891年(明治24年)には完全に国産化され、国内各地の要塞に配備されました。日露戦争における二○三高地の攻略にも18門が投入され、合計16940発が使用されたといいます。最大射程距離は7800mです。

それでは柵門から順番にご案内しましょう。

まず柵門ですが、方形に成形された石を積み上げた布積みで、江戸期の城郭の石垣とは明らかに違い、西洋の城郭を思わせる立派なものです。西洋の築城技術の影響を受けているのでしょうか。使用された石材は、東京湾を挟んだ対岸の千葉県は鋸山で採掘された房州石です。房州石は、大谷石によく似た砂質凝灰岩で、この柵門に使われた石材に残された刻印から、鋸山で採掘されたものと特定されました。

107柵門.jpg

柵門を入ると正面には土塁がありますが、この土塁は土を盛って作られています。道の突き当りには掘り抜き井戸があり、鋼鉄製の蓋がかぶせてありますが、それを少しずらして中を覗くと、深さは3mくらいでしょうか、すっかり今は枯れていて、内部の側壁は、煉瓦を小口積みで作られています。

108土塁前井戸.jpg
109土塁前井戸内部.jpg

そして蓋を開けた隅に目を転じると・・・あ、あ、あったぁ~~~(某ブログの煉瓦刻印マイスターである琴音っち風に驚いてみました(^^)

小菅集治監で焼かれた煉瓦であることを示す複弁の桜の刻印の端があるではありませんか!!


110土塁前井戸に残る複弁桜の刻印.jpg

目隠しのように作られた土塁を右側に反時計回りで回り込むと、以前立っていた海上自衛隊の通信施設の建物は取り壊されて更地になっています。周辺は高い樹木は無く草はしっかり刈りこまれていて、実に空がのびのびと気持ちの良い青空が広がっています。この好天が災いして、施設の写真は陰影が強く写真を撮るのに一苦労でした。



さてさて一気に書き上げようと思ったのですが、あまりにも長くなりそうなので、一度ここで筆をおかせていただきます。
続きは可能な限り早い時期にアップしたいと思います。

最後に砲座の写真を一枚!!

128第一砲座2.jpg

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2016年ゆく年 2017年くる年 [防災・減災シリーズ]

ゆく年くる年、年をまたぎながら記事を書いています。
2016年は大変お世話になりました。
本来なら皆様のところにお邪魔してそれぞれお礼を述べなければならないところ、こちらから失礼いたします。
おかげ様でこの『東京の坂と橋』も1月1日でまる9年を迎えました。
また、ボーイスカウトのことを書いていてもう一つのブログは、9年と10か月を迎えました・・・・といってもこちらのブログをご存じの方はかなりの少数だとは思いますが。

今一番気になっているのは、気象庁の地震データベースに記録が残る1923年以降、未だかつてない数の地震が頻発している点です。以下気象庁の地震データベースから震度5弱以上の地震を10年ごとに抽出したものです。

震度別地震回数表
期間震度1震度2震度3震度4震度5弱震度5強震度6弱震度6強震度7合計
1920年代000049040053
1930年代000040020042
1940年代000011040015
1950年代0000400004
1960年代000037000037
1970年代000015010016
1980年代000019010020
1990年代000035450145
2000年代000073291971129
2010年代000097381263156
合計00003807148135517
  • 1996年9月以前の震度5、震度6はそれぞれ、震度5弱、震度6弱として扱っています

1990年代までは一番多い年代でも関東大震災のあった1920年代に53回だったのが、2000年代はなんと一気に129回となり、2010年代のわずか7年間で過去の記録を塗り替えて156回を数えることとなりました。
明らかに日本は近代以降最大の地震活動期に入っているといって過言ではありません。
日本に住む以上は、地震は避けては通れないものです。人間には叡智があります。
このまま座して待つのではなく、来るべき時に備えていただきたいものです。

ほとんどの方々が想像を超えた事態に直面すると、何もできず固まってしまい身を守ることもできません。
最近あちこちで防災の講演をさせていただく機会をがありますが、その際申し上げていることは、
災害が起こるまでの防災力は『想像力』
ひとたび災害が発生した後の防災力は『サバイバル力』
です。

以前も申し上げましたが、
 正常性バイアス・・・ある程度の異常なことは、正常なものと過小評価してしまう心理
 同調性バイアス・・・他の人が行動をおこしていないから、まだ大事腰部だろうという心理
 凍り付き症候群・・・理解を超えた未知の事態に遭遇し、何も行動をとれない状態
これらの状況を排除するために、次の『そなえ』が必要となります。
それは、
 心のそなえ
 行動のそなえ
 物のそなえ
です。
まずは、今地震が起こったらどのような状況に置かれるのか、考えることです。
家にいるとき、職場にいるとき、買い物をしているとき、色々な時に考えてみてください。
そして、次にそのような状態に置かれたら、自分はどのような行動をとるべきなのか、色々な方法を考えましょう。
そして最後に、今地震が起こってライフラインが断絶したら、家がつぶれたら何が足りないのか、どうすればよかったのか考えて、家の耐震化、間取りの見直し、様々な必要物資の備蓄をしてください。

意外とよく知られていることが、実はやってはいけないことだったりします。
例えば、東京都の全家庭に配布されたマニュアル本にも『地震があったら机の下に潜り込む』とありますが、これがその代表格でしょう。
もし地震で揺れだしたら、『玄関に行って扉を開け放し、外に出ずに揺れが収まるまでかがんで頭を抱えて丸くなり揺れが収まるのを待つ』が正解です。
万が一行動がとれず身を守らなければならない最後の手段として机の下に潜り込むということはありです。
机の下に潜り込むことが、なぜ危険なことなのかというと、机の下に潜り込んだ結果倒れてきた家具などに閉じ込められてしまいます。また家が倒壊した時にそれに耐えられるような机は普通の家にはありません。

どのような行動をとったらよいのか、何を準備したらいいのか、斯くの如く一人で考えるのは難しいものです。
そんな時にお役に立てたらという思いから、あちらこちらで色々なお話しをさせていただいております。
もしお話しを聞きたいという方がいらっしゃったら、お声がけください。
ご参考になるお話しをさせていただけることと思います。

3月には、再び泉佐野市さんからお声をかけていただき、『サバイバル力』をアップさせるために春休みを利用して親子で学ぶ教室を実施させていただきます。
おやこ防災教室 
ボーイスカウト流サバイバル術
~身近にある〇〇を使ってご飯を炊こう!~
お近くの方は、ぜひともご参加ください。


なんと今日は、枕詞に防災のお話しを書いて、先日近代産業文化遺産としての煉瓦建築物についての通説を覆すような発見をしたことを書こうと思っていましたが、これは次回に譲りたいと思います。
最後にその大発見をした近くに『君の名は。』の聖地があったので、そこで撮った写真を加工したものをアップして筆をおくことにしましょう。
皆様方の2017年が幸多き年になることを祈念しております。

17須賀神社.jpg 

16須賀神社.jpg 


消滅した日本で二番目に低い山がなんと復活!! [東京の坂と橋]

◆近 況
先日のオフ会、多くの方にお集まりいただき、ありがとうございました。
参加された皆様が、それぞれ楽しまれた様子をアップされてらっしゃいますね。
次回はちょっと遅めの新年かなぁ・・・また銀座の「ときとう」さんにお邪魔したいと思っています。
⇒銀座ときとう

このところいろいろな原稿の締め切りに追われ、今まで毎朝皆さんのところにお邪魔する時間も削って、執筆にいそしんでおりました。みなさ方のところにお邪魔できないまま次の記事をアップするのも忸怩たる思いですが、以前書いた記事を改めて書こうとしたら、状況が一変していたので、改めてご報告させていただきたく、記事にしました。

小説投稿サイト『カクヨム』で開催されていた『あなたの街の物語』コンテストには、合計41話のエッセイを投稿させて頂きました・・・と言っても、このブログに書いた話の中から面白そうな話しをピックアップしただけですが。
宜しかったら、以下のリンクから、面白そうなお話しをクリックしてお読みいただければ幸いです。
⇒カクヨムサイト

◆『日本で二番目に低い山』のその後
もう5年も前になりますが、日本で二番目に低い仙台にある日和山が、東日本大震災で津波の直撃を受け消滅したことを書きました。
http://kotarobs.blog.so-net.ne.jp/2011-09-30

今回改めてカクヨムの小説投稿サイトに投稿しようと、現状を調べてびっくり!!
当時の報道を見ると、「津波の直撃をうけ消滅した」と伝えていたものが、なんと、2014年に国土地理院が測量した結果、『標高3mの山』と地形図に記載したのです。

1996年に大阪の『天保山』が標高4.53mの山として認められると、それまで標高6.05mだった日和山は、二番に甘んじることとなり、以来日和山は『元祖日本一低い山』と呼ばれてきました。
それが2014年に再び『日本一低い山』として復活したのです。

このお話しは、以下のリンクのカクヨムのサイトでご覧ください。
⇒日本で二番目に低い山が一番低い山になった

◆最後に
さい、12月4日日曜日は、国立谷保天満宮で『旧車祭』が行われます。
お時間のある方は、ぜひともお越しください。国立駅から無料のシャトルバスがあり、谷保駅から歩いて数分です。
http://acj1908.web.fc2.com/

2016.11.12横浜1.jpg


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☆彡オフ会最終案内 ☆彡くろがね四起2 [我が愛しのWillys M38]

いつもご訪問いただく皆様、なかなか訪問しきれず、大変申し訳ありません。

飽きもせず、せっせとカクヨムにエッセイや小説を投稿しています。よろしければ、次のリンクからご訪問いただければ幸いです。

https://kakuyomu.jp/users/kotarobs/works

最新の話は『サンチャ』です。

https://kakuyomu.jp/works/1177354054882061393/episodes/1177354054882061396

☆彡オフ会最終案内
出席のご連絡をいただいているのは、続きの方々です。

(順不同)
Falconさん
ken-jpさん
kinkinさん
koh925さん
NO14Ruggermanさん
YUTAじいさん
chibidoraさん
えーちゃんさん
くまらさん
さといも野郎さん
空のRayさん
獏さん
駅員3 以上13人となりました。

11月25日金曜日 19時00分から 上野「下町の隠れ家れんこん」です。
会費は飲み放題付きで5000円となりました。

ちょっと早めの忘年会(^^)/
皆さんにお会いできるのを楽しみにしています[ムード]

☆彡くろがね四起2
以前・・・2014年5月に「くろがね四起1」をアップしました。
http://kotarobs.blog.so-net.ne.jp/2014-05-24
京都自動車整備工場の奥で数十年眠っていたくろがね四起をサルベージしてきて、クラウドファンディングで、いよいよ再生を始めようとするところの記事でした。

いよいよまる2年かけてレストアされたものが、9月に完成しましたが、残念ながらお披露目会には参加できず、11月20日にお台場で行われた旧車天国でようやくご対面!!

新旧どう変わったか、ご覧ください。

2014.05.24くろがね1.jpg

2016.11.20くろがね四起11.jpg

2014.05.24くろがね2.jpg

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2016.11.20くろがね16.jpg

よくぞここまで、再生されましたね。
あのWillys MB より早く誕生した四輪駆動車、日本の宝です。

最後にうちのWillys M38君もアップさせてください(^_-)/

2016.11.12横浜6.jpg


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