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消滅した日本で二番目に低い山がなんと復活!! [東京の坂と橋]

◆近 況
先日のオフ会、多くの方にお集まりいただき、ありがとうございました。
参加された皆様が、それぞれ楽しまれた様子をアップされてらっしゃいますね。
次回はちょっと遅めの新年かなぁ・・・また銀座の「ときとう」さんにお邪魔したいと思っています。
⇒銀座ときとう

このところいろいろな原稿の締め切りに追われ、今まで毎朝皆さんのところにお邪魔する時間も削って、執筆にいそしんでおりました。みなさ方のところにお邪魔できないまま次の記事をアップするのも忸怩たる思いですが、以前書いた記事を改めて書こうとしたら、状況が一変していたので、改めてご報告させていただきたく、記事にしました。

小説投稿サイト『カクヨム』で開催されていた『あなたの街の物語』コンテストには、合計41話のエッセイを投稿させて頂きました・・・と言っても、このブログに書いた話の中から面白そうな話しをピックアップしただけですが。
宜しかったら、以下のリンクから、面白そうなお話しをクリックしてお読みいただければ幸いです。
⇒カクヨムサイト

◆『日本で二番目に低い山』のその後
もう5年も前になりますが、日本で二番目に低い仙台にある日和山が、東日本大震災で津波の直撃を受け消滅したことを書きました。
http://kotarobs.blog.so-net.ne.jp/2011-09-30

今回改めてカクヨムの小説投稿サイトに投稿しようと、現状を調べてびっくり!!
当時の報道を見ると、「津波の直撃をうけ消滅した」と伝えていたものが、なんと、2014年に国土地理院が測量した結果、『標高3mの山』と地形図に記載したのです。

1996年に大阪の『天保山』が標高4.53mの山として認められると、それまで標高6.05mだった日和山は、二番に甘んじることとなり、以来日和山は『元祖日本一低い山』と呼ばれてきました。
それが2014年に再び『日本一低い山』として復活したのです。

このお話しは、以下のリンクのカクヨムのサイトでご覧ください。
⇒日本で二番目に低い山が一番低い山になった

◆最後に
さい、12月4日日曜日は、国立谷保天満宮で『旧車祭』が行われます。
お時間のある方は、ぜひともお越しください。国立駅から無料のシャトルバスがあり、谷保駅から歩いて数分です。
http://acj1908.web.fc2.com/

2016.11.12横浜1.jpg


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『東京の坂と橋』・・・新たなる試み 他諸々 追記あり [東京の坂と橋]

【近 況】
9月13日に富山北陸経済研究所さんのお招きで防災・減災に関するセミナーを開催します。企業向けのものですが、よろしかったらご参加ください。
⇒詳細はこちらのリンクからダウンロードできます

3懇親会small.jpg

写真が何もないと寂しいので、最近撮った写真をアップしてみました。
記事の内容とは全く関係ありません(^^) 

東京の坂と橋・・・新たなる試み】
最近、このカテゴリーでの投稿はすっかり減ってしまいましたが、もともとこのブログを始めた原点は、この坂と橋でした。

角川が新たな小説投稿サイト『カクヨム』を開設したので、このソネブロにもアップした『学生街の四季』を改めて書き始めました。
しかし講演活動などがちょっと忙しくなり、やはり途中で続きが書けなくて止まっています。

⇒カクヨム編 『学生街の四季』 

さらにこの『カクヨム』に『東京の坂と橋』を描きはじめました。
いままでこのソネブロにアップしていたのは、坂道や橋を訪れたときに、その風景などを写真に撮って、その風景を中心に説明を加えたものです。

私の愛読書に矢田挿雲の「江戸から東京へ」という本があります。
全12巻の長編は、明治維新後都市化が進む関東大震災前の東京の様子を散策するもので、一枚も写真は使われていません。

そこで無謀にも坂と橋、さらにはそれに絡まる人間模様を文章でスケッチしてみようと始めたのが、次のリンクにアップしたものです。

改めて書き始めると、わずか数年前なのに、すっかり景色が変わってしまったり、あったはずの建物や標識が無くなっていたりと、驚くことばかりですが、よろしかったら次のリンクからご訪問いただき、はたして文章でスケッチするという目論みがどういう具合か、ご感想などをお教えいただければ、今後の執筆の参考にさせていただきます。

⇒カクヨム編 『東京の坂と橋』 

次の写真は、坂を追い求め始めるきっかけとなった坂の標識です。 

11043763.jpg

残念ながら、先日この標識を観に行ったところ、辺りはすっかり変わりこの看板は撤去され、 替わりに今風の小さい標識が設置されていました。
とても雰囲気のある素晴らしいものだったのですが・・・・

【秋のイベント参加】
秋は様々な旧車のイベントが催されます。
今まで2~3のイベントに参加していましたが、今年は、なんと5つもエントリーしてしまいました。
よろしかったら、お越しください。
M38くんの前でお待ちしています。 

10月01日土曜日、02日日曜日 熱海長浜海浜公園
熱海ヒストリカGP 

10月16日日曜日 都立小金井公園
⇒クラシックカーフェスティバル in 小金井

11月12日土曜日 横浜赤レンガ倉庫
⇒横浜ヒストリックカーデー

11月20日日曜日 臨海副都心青海地区お台場特設会場
⇒旧車天国

12月04日日曜日 谷保天満宮
⇒旧車祭 

1仙人小屋small.jpg

※追記【ご案内】
kinkinさんかから確認のコメントを頂きましたので、追記します。
遠路はるばる上京されるソネットブロガーさんとの親交を深めるため、以下のオフ会を企画しています。
ぜひとも日程表に入れていただき、ご参加いただければ幸いです。

詳細は改めてアップしますね。

◆09月23日金曜日 19時から 新橋~品川界隈にて
 まるたろうさんのイベント参戦に合わせて行います

◆10月02日日曜日 18時から 京王・小田急・多摩都市モノレール 多摩センター駅近くの LaPala
 風来鶏さんの上京に合わせて行います + α

◆11月25日金曜日 19時から 場所未定(新宿か上野界隈)
 くまらさんの東京出張に合わせて行います


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東京の坂と橋 番外編139 東京湾要塞1 第三海堡 [東京の坂と橋]

東京湾要塞は、帝都東京を外敵から守る為に、明治政府の手により築造された。

城ケ島から夏島までの24の沿岸砲台の他、第一海堡から第三海堡まで3つの海堡が建設されている。

海堡は、東京湾の最峡部の富津岬と浦賀水道を結ぶ位置に造成された人工島で、明治中期から建設が始まり、大正時代に完成している。
第一海堡と第二海堡は、水深8~10mの富津岬沖に建設されたが、第三海堡は浦賀水道の水深39mもある、波浪と潮流の激しい中央部に建設された。

次の地図は、1903年(明治36年)の第三海堡の地形図だ。

4 1903旧1万地形図第三海堡o512.jpg 

ようやく頭の部分が形作られてきている様子がわかる。

1923年(大正12年)に発生した関東大震災により、第二海堡と第三海保は被害が大きく、砲台としての役目を終えている。
次の地図は、震災後の1926年(大正15年)の第三海堡の地形図である。

5 1926.07.25旧1万地形図第三海堡o513.jpg 
昭和に入るとワシントン軍縮条約により余剰となった艦艇の艦砲を沿岸砲台に移設した結果、沿岸砲台を第一射線、その湾奥に位置する第一海堡を第二射線として、東京湾に侵入してくる外敵を二段構え迎え撃つ体制となった。

 8 M37 第三海堡速射砲設置図面.jpg

第三海堡には、魚雷も装備されていたようだ。 

1第三海堡水雷発射装置2.jpg 

関東大震災で被災した第三海堡は、約4.8mも海底が沈下して海面上部分の1/3が水没し、海上交通の妨げになっていたことから、2000年~2007年にかけて撤去された。

次の白黒写真は、1947年(昭和22年)の航空写真、カラー写真は、1977年(昭和52年)のものだ。

6 1947.08.11USA-M399-102 第三海堡.jpg

7 1977.12.11CKT 771-C47-5 第三海堡付近.jpg

ほとんど水没し、暗礁と化している様子がよくわかる。 

第三海堡が撤去された際、海中から引き揚げられた一部の築造物が横須賀市夏島に3棟、うみかぜ公園に1棟保存されている。

さる3月21日に、地元で行われたイベントに合わせて、夏島町に保存されている建造物と、沿岸砲台である夏島を見学させていただいた。その中から、今回は第三海堡をご紹介する。

1第三海堡断面図表紙.jpg

2第三海堡断面図断面図1.jpg

3第三海堡断面図断面図2.jpg
(ちなみに江戸幕府が築いた品川台場は水深2~3mのところである。)

第三海堡の工事は、波浪や潮流の激しさに加えて、台風により何度も被害が出ているようだ。

明治39年7月3日、築城本部 榊原昇造部長(陸軍少将)が陸軍大臣寺内正毅宛てに出した『第三海堡基礎に関する特別報告』を読むと、『・・・幾多ノ暴風怒涛ニ遭遇シ損害ヲ蒙リタルコト数次ナリシカ故に此風浪迫害防止ノタメ三十六年四月当部外面脚ニ防浪「ベトン」塊ヲ排列セシ処其施設好結果ヲ発シ再来工事着々進捗シ・・・』と記されていて、完成まで30年もかかる難工事だったようだ。

『防浪ベトン塊』というのは、今風に言えばコンクリート製消波ブロックということだろう。

20150325173136_000012.jpg 

この工事の成功を促したものは、日本古来の築城技術と、明治になって導入された潜水技術や鉄筋コンクリート製のケーソンの採用など、和洋技術の合作の成果ともいえる。

世界的にみても、このような場所に人工島を建設するような例は他にない。
関東大震災で地盤沈下により水没してしまったとはいえ、当時世界最先端をいく土木技術として世界中から高い評価を得ている。

その結果、アメリカの首都ワシントンの前面に位置するチェサピーク湾に海堡を建設する際、アメリカに技術情報が供与されている。

次の図面は、アメリカ公文書館に保管されている日本が供与した英訳された図面である。

9 アメリカ公文書館所蔵英文技術資料.jpg

近代日本の技術輸出第一号ともいえる快挙だ。

第三海堡が撤去される際、4棟の建物が陸上に引き上げられて保存されているが、次の3棟を見学させていただいた。

image.jpg

第三海堡物語より転載

①探照灯
海堡頭部にあった探照灯施設で、探照灯を移動させるためのレールが残っている。(陸揚重量565t)

106探照灯.jpg

110探照灯.jpg

109探照灯.jpg

108探照灯.jpg

内部通路が途中で直角に曲がる部分の各方向からのアーチの接合部分が非常にきれいに施工されているが、これはかなり高度な技術だといえる。

107探照灯.jpg 

②砲台砲側庫
全体がコンクリート一体構造となっていて、鉄筋は確認されていない。
コンクリートのみでこれだけの強度のものを作る技術があったのは驚愕に値する。
(陸揚重量540t)

111砲台砲側庫.jpg

112砲台砲側庫.jpg 

113砲台砲側庫.jpg

③観測所兼砲側庫
引き上げられた観測所は砲台後部に位置し、砲側庫と一体構造となっている。
次の写真の右側の円柱部分が観測所、左のかまぼこ状のものが砲側庫だ。
(陸揚重量907t)

101観測所.jpg

102観測所.jpg

103観測所.jpg 

104観測所.jpg

105観測所.jpg

何れの建物にも側溝が掘られ、雨水が効率よく雨水タンクに導かれて貯蔵されていたようだ。

国立公文書館にある第三海堡の資料にあたると、いくつか面白い事実が浮かび上がってくる。

『第三海堡ノ土礎堆石上ヘ外国汽船乗揚ノ義ニ付申進』を読むと、1893年(明治26年)4月16日に香港から横浜に向かっていたドイツの郵船ニオベ号が、建設途中の第三海堡に座礁している。

この報告書に添付されている船長イー・ジー・パッフの調書には、『余ハ海峡ノ中央ニアル此新暗礁ハ之ヲ表示スル燈光不見分ニシテ数多ノ船燈中ヨリ之ヲ区分スルヲ得ザリシ』と記されている。

話しは変わるが1902年(明治35年)12月に『年齢計算ニ関スル法律』が施行された。この法律によると『年齢ハ出生ノ日ヨリ之を起算ス』とあることから、年齢が加算されるのは誕生日前日となる。

従って4月1日生まれの子供は、3月31日に一つ歳をとることから、早生まれの学年となる。
はぁ~、ということは今日また一つ歳をとってしまったのだ(;--)


タグ:東京湾 要塞

東京の坂と橋 四方山話86 東京の大雪は土日に降る・・・という都市伝説 [東京の坂と橋]

東京では、16日に雨が降って以来、晴天が続いてきました。

しかし14日は、午後から曇りはじめ、15日は8時以降雨マークがついています。

 

15日に、関東地方の南岸を低気圧が通過するためにお天気が崩れる予報です。

一般的に本州南岸を低気圧が通過すると、気温と湿度によっては雪になります。

こんなに寒いと雪になるのかなぁ・・・なんて思ったりしますね。

 

ここで大雪注意報の発表基準についてみてみましょう。

当然のことながら、基準は場所によって違います。
気象庁のホームページにある『警報・注意報発表基準一覧』を覗くと次のようになっていました。

 東京23区、多摩北部、南部・・・24時間降雪深さが5cm


それでは雪が多く降る地方は・・・

 新潟市・・・6時間降雪の深さが15cm

 札幌市のある石狩中部の平地・・・12時間降雪の深さが20cm

となっています。

 やはりあまり雪の降らない東京と、日本海側の新潟や北国の札幌などとは、大きく基準が異なりますね。

 

ここまでくると、「沖縄には大雪注意報の基準はあるのか!?」と疑問に思いませんか?

早速調べてみると、沖縄は雪に関係する注意報の基準(雪・なだれ・風雪・暴風雪)はありませんでした。

 

それでは、どこまで大雪注意報の基準があるんだろう!?
次から次へと好奇心は止みません。
鹿児島県の基準を覗くと、

 種子島・屋久島地方・・・24時間降雪の深さが5cm


となっていましたが、奄美地方は沖縄と同じく基準はありませんでした。

・・・ということで、大雪注意報の発表基準の南限は種子島・屋久島地方までなんですね。

 

さて、東京の都市伝説として『大雪になるのは土日か祝日だ』というのを聞いたことがあるでしょうか?

 

昨年、気象予報士の増田雅昭さんが2月上旬に「東京の大雪は土日・祝日が多い」とご自身のブログで発表されました。

 

そこで私も1990年以降現在まで、都心部の積雪が5cm以上の日(大雪注意報が発令された日)を気象庁のデータからピックアップしてみました。

No日 付曜日降雪量
11990年 2月 1日木曜日11cm
21992年 2月 1日土曜日13cm
31994年 1月29日土曜日7cm
41994年 2月12日土曜日27cm
51996年 2月17日土曜日7cm
61996年 2月18日日曜日9cm
71998年 1月 8日木曜日10cm
81998年 1月15日木曜日 成人の日18cm
91998年 3月 1日日曜日5cm
102001年 1月27日土曜日9cm
112006年 1月21日土曜日10cm
122013年 1月14日月曜日 成人の日8cm
132014年 2月 8日土曜日22cm
142014年 2月14日金曜日18cm
152014年 2月15日土曜日9cm

如何ですか?

 

1990年来25年間に5cm以上の積雪があったのは、全部で15回、そのうち土曜日が8回、日曜日が2回、祝日が2回、合計12回となっています。 

統計データとしては母数が少なすぎますが、傾向としては明らかですね。

 

都心部は人が多く集まる平日は気温が高めとなり、逆に人の少ない土日は低くなるからでしょうか。

東京都が平成25年3月(26年12月修正)に公表した23区部の昼間人口は1171万人、夜間人口は894万人となっています。

その差277万人が郊外からの通勤者だとして、人間一人の熱量が50wあるとすると、

 

 50w × 277万人 = 138500kw

 

となります。

沖縄電力の総発電量が210万kwですから、その6%に相当するエネルギーが、休日には無いということになります。

 

気象庁気象研究所の解析によると、東京都心では、土日・祝日の気温が平日に比べて0.2℃低く、特に冬場にその傾向が目立つということですから、単なる都市伝説として片づけるわけにはいきませんね。

 

ということで、15日は木曜日ですから、都心部では『雪』にはならず『雨』となることでしょう。

 


さてさて、何も写真が無いのは寂しいので、ここで久々の登場、JK Wrangler 君です。

 

1小山田緑地のJKくん.jpg




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東京の坂と橋 番外編138 琵琶湖疎水 扁額の旅 [東京の坂と橋]

新年にあたり、多くの方々にご訪問いただき、誠にありがとうございます。
改めまして、本年もよろしくお願いいたします。

当分思うように時間の取れない日々が続くことと思いますが、今年は自分自身の一大転機の年と取らえて、大きな目標に向かって頑張りたいと思います。
更新も訪問も不定期な状況が続くことと思いますが、旧年同様お付き合いいただければ幸いです。

昨年は、皆様にはお伝えさせていただいた通り、「考古学ジャーナル12月号」の煉瓦を特集した記事の中の数ページを寄稿させていただくことができ、大変勉強になりました。
現在「新永間高架橋(JR新橋⇔東京間)」について煉瓦構築物の観点から調査研究を進めており、論文にまとめているところです。
完成しましたら、その要約版でもアップしたいと考えております。

さて大阪京都遠征から1か月が過ぎて、参加された多くの方々が記事にされたことと思います。
改めて皆様方の記した記事や写真を見ながら振り返ってみると、本当に素晴らしい二日間で、実施してよかったと思います。
また個人的にも「煉瓦」を堪能させていただき、非常に有意義な二日間となりました。

そこで、改めて「扁額」という観点から、京都を振り返ってみたいと思います。
「扁額」というと、みんなさんあまり聞きなれない言葉かと思います。
以前ご紹介した次の写真をご覧ください。

(この写真のトンネルは、1934年(昭和9年)に横須賀に開通した『鴨居隧道』を例にとってご説明させていただいております。このトンネルに関する記事は、次のリンクをクリックしてください。
http://kotarobs.blog.so-net.ne.jp/2011-04-29 )

『扁額』というのは建物の門、鳥居などの上部に掲出されている『額』のことで、概ねその名前を記したものが多いのですが、その構造物を建設した者の『熱き想い』などを記すことも多くあります。

琵琶湖疎水には第一隧道から第六隧道まで六つの隧道のほか、諸羽トンネル、第二疎水、合流トンネル、南禅寺隧道があり、関連施設のインクラインにねじりまんぽなどの隧道があります。

それでは、まずねじりまんぽの扁額からご紹介しましょう。
まず蹴上駅側にある扁額です。

15ねじりまんぽ.jpg

篆書体で書かれた「雄観奇想」は、第三代京都府知事の北垣国道によるもので栗田焼の陶器製です。
「雄観」とは「素晴らしい眺望」、「奇想」とは「優れた考え」という意味です。

隧道を潜り抜けて南禅寺側に回ると、かなり読み取り辛いのですが、同じく北垣国道の揮毫で「陽気発処」と記されています。

16ねじりまんぽ2.jpg

「陽気発処」とは古代中国の朱子学からきた「陽気発処 金石亦透 精神一倒 何事不成(陽気発するところ 金石また透る 精神一倒 何事かならざん)」という言葉の一部で、どんな困難も精神を集中して行えば打ち勝つことができるの意味です。

明治の新しい時代を迎えて、前へ前へと突き進む情熱の感じられる揮毫ですね。

さて、南禅寺の境内に入り第五隧道の入口はには扁額がありませんでした。

19琵琶湖疎水第5トンネル入口.jpg

残念ながら第六隧道まで行く時間はなく未確認のほか、第四隧道、南禅寺隧道も確認できていません。

南禅寺から遡って見えてきたのは、第二疎水の出口です。

18琵琶湖大二疎水トンネル出口.jpg 

一瞬縦の扁額がついているのかと思いましたが、よく見ると要石に装飾が施されているだけで、何も文字は書かれていません。

このそばに第三隧道の出口があったのですが、残念ながら公開されているところから望むことはできませんでした。

この後第三隧道の入口へと向かいます。
隧道の全長は825mあるのですが、実際道路を通ると、地下鉄東西線蹴上駅から次の御陵駅まで歩くこととなりました。

地図に記されてなかったため、色々地形などを推測しながら峠を越えて歩いていくと、紅葉の絶景を同行者のちょいのりさんと二人占めするという好機に恵まれました。

8琵琶湖疎水.jpg

第三隧道の入口は非常に意匠をこらした素晴らしい造りとなっていて、立派な扁額が付いていました。

17琵琶湖疎水第三トンネル入口扁額.jpg

松方正義によるもので「過雨看松色」と記されています。
「時雨(しぐれ)が過ぎると、一段と鮮やかな松の緑をみることができる」という意味です。

ここでちょいのりさんの記事にもある通り、地元の方から「煉瓦工場の跡の石碑がある」という素晴らしい情報に接してしまい、「『第二隧道』を観に行く」ということに考えが及ばず、後から地団太踏んだのは私だけではないでしょう。

第二隧道の出入り口も煉瓦構造物として大変見応えのあるものですので、いつの日か第一隧道から通して歩いてみたいと思います。

参加者を募って「琵琶湖疎水煉瓦研究会」を実施しますか!?

このほか発電所にも扁額があったようですが、『扁額』という着意がなく撮り漏れています。

・・・ということで、大阪、京都オフ会の記事を締めたいと思います。


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東京の坂戸橋 四方山話85 江戸時代に庶民に広まったお歳暮 そしてクリスマス会&忘年会最終案内 [東京の坂と橋]

◆まず最初に12月13日のクリスマス会&忘年会の最終案内です。

すでに数人の方から参加表明頂いておりますが、人数を確定させたいと思いますので、12月8日月曜日までに参加ご希望の方は、私の記事の左上にあるメールフォームから、ご連絡くださいませ。

皆様方のご参加お待ちしております。

詳細は次の記事をご参照ください。

http://kotarobs.blog.so-net.ne.jp/2014-10-27 

今日アップした写真は記事の内容とは関係ありません。
先日の京都・大阪で撮った写真をアップしています。

14三条.jpg 

◆さて、今日の本題です。
12
月に入り、1年の締めくくりとしてお歳暮を贈られる方は少なくないと思います。


1年間の感謝の気持ちを込めて、あるいは送る先の健康等を気遣って送るものですが、お歳暮とお中元ではその起源が違います。


 『中元』とは道教に由来する行事の一つで、旧暦の715日に行われます。


道教では龍王の三人の孫の誕生日を祝う日を、賜福大帝の誕生日を『上元(旧暦115日』、赦罪大帝の誕生日を『中元』、解厄大帝の誕生日を『下元(旧暦1015)』としています。


中国では、人々はこの誕生日にお祝いものを備えて祝っていましたが、これが室町時代に公家の間で仏教の盂蘭盆会と結びついて、親やご近所などお世話になった人々と贈り物のやり取りをするようになっていきました。


この日本での風習は江戸時代庶民にも広まって、今のような『中元』のスタイルになったようです。


一方『歳暮』は、新年に年神さまへのお供物を本家や家元に持っていく行事だったといわれています。


今でもお歳暮に新巻鮭や数の子を贈るのは、年神さまにお供えするお神酒の肴に由来するのでしょうね。


このお歳暮を贈るのも江戸時代に庶民の間に広まったといわれています。

 13淀屋橋.jpg

お中元、お歳暮の起源については、このほか諸説あります。


その一つに次のようなものがあります。


江戸時代の商品代金のやりとりは基本的に掛け売りでした。


その掛けの精算をお盆と暮れの時期に半年分を一括で支払っていたことから、その支払をする際に、日頃のお礼と感謝の気持ちを込め中元、お歳暮として贈り物を渡したというものです。


年賀状は喪中であったり、喪中の方には出しませんが、お中元、お歳暮は贈る側が喪中であっても受け取る側が喪中であっても『お祝い』ではありませんから、送ることに問題ありません。


贈る際に、のしや水引は避けて送るケースもあります。


また、ご不幸がお中元、お歳暮の時期に近かった場合には、ちょっと送る時期をずらして『残暑見舞い』、『寒中見舞い』などとして贈る心遣いも必要ですね。

さらに丁寧に贈りたい場合には、到着時期に合わせて感謝の言葉とともに贈った品物や発送した時期などを記した書状を送るとよいでしょう。


お返しはお礼状のみでも失礼には当たりません。


親しい間柄で親交を深めるという意味では、同額くらいのお返しをすると、贈られた方も嬉しいことでしょう。

11難波橋.jpg 


お贈りする品物は、目上の方への商品券、お年寄りへの肌着はさけた方がいいと思います。


いろいろと書きましたが、要は「日頃の感謝の気持ち」を表すということが大切なのですね。



東京の坂と橋 四方山話84 東京の様々な地域の呼び方 [東京の坂と橋]

明治維新になって東京府が置かれると、近代化の大きなうねりの中で東京は大きく変貌を遂げていきます。
その変化の中で、東京に様々な地域の呼び名が誕生しました。 

≪都下・三多摩≫
たとえば、『東京23区内と東京都下』と呼ぶことがありますね。
これは東京府の時代に東京市内(ほぼ23区に重なります)と東京府下(現在の多摩地域に重なります)という呼び方をしていたことから、1943年(昭和18年)に東京都になった後も『東京23区内と東京都下』という呼び名が残りました。

また、都下の郡部は南多摩郡、北多摩郡、西多摩郡に分かれますが、これらの総称として『三多摩』と呼ぶこともあります。 

≪都心・副都心≫
東京都産業労働局発行の「東京の産業と雇用就業」では、23区部を次のように分類しています。

地域名該当区
都心地域千代田区 中央区 港区       
副都心地域 新宿区 文京区 渋谷区 豊島区  
城東地域 台東区 墨田区 江東区 荒川区  
 足立区 葛飾区 江戸川区      
城南地域品川区 目黒区 大田区      
城西地域 中野区 杉並区 練馬区 世田谷区 
城北地域板橋区 北区             

◆都心地域のことを『都心3区』と呼ぶこともあります。
◆都心3区に新宿区、渋谷区を加えて『都心5区』と呼ぶこともあります。
◆東京都が定めた都市計画における副都心は次の通りです。
 新宿副都心  池袋副都心  渋谷副都心  上野・浅草副都心  
 錦糸町・亀戸副都心  大崎・品川副都心  東京臨海副都心

≪気象庁による警報区分≫
意外と正確に知られていない区分がこれ。
各種気象情報を発令する場合の区分は、次のようになっています。

区 分該    当    区
23区東部 台東区 墨田区 江東区 荒川区 足立区 葛飾区 江戸川区     
23区西部 港区 新宿区 品川区 目黒区 大田区 世田谷区 渋谷区 中野区 
 杉並区 練馬区 千代田区 中央区 文京区 豊島区 北区 板橋区 
 

≪ナンバープレート≫
ナンバープレートに記載される陸運支局の地名は、次のような区域に分かれています。

地  名該当地域
品川ナンバー 千代田区 中央区 港区 品川区 目黒区 大田区 世田谷区 渋谷区 島嶼部 
練馬ナンバー 新宿区 文京区 中野区 杉並区 豊島区 板橋区 練馬区 北区         
足立ナンバー 台東区 墨田区 江東区 荒川区 足立区 葛飾区 江戸川区           
八王子ナンバー 八王子市 あきる野市 日野市 福生市 青梅市 羽村市 西多摩郡       
多摩ナンバー 立川市 武蔵野市 三鷹市 府中市 昭島市 調布市 町田市 小金井市    
 小平市 東村山市 国分寺市 国立市 狛江市 東大和市 清瀬市        
 東久留米市 武蔵村山市 多摩市 稲城市 西東京市               

ちなみにわがM38君のナンバーには、陸運支局の名前が入っていませんが、M38君が登録された1960年(昭和35年)当時は、東京に陸運局は品川のみでした。

現在の管轄は『練馬』です。

 

 

 

 

 

 

 


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東京の坂と橋 番外編137 蚕糸試験場日野桑園 [東京の坂と橋]

自治会総会の資料はなんとか滑り込みセーフで、今日の会議に臨むことができました。
その後夕方から行われたボーイスカウト講習会のスタッフ会議へと向かいます。

4月6日に行われる講習会の当日の流れなどを確認しました。
それぞれ作成された講義要綱に基づいて、内容を点検していきます。

特に実際に行われるミニハイキングは、この講習会の醍醐味ともいえます。
スタッフ全員で、ハイキングコースを点検して歩きます。

このハイキングコースは、日野市市民の森スポーツ公園を中心とする日野市の施設です。
ここは整備される前は、鬱蒼とした雑木林の中に、戦前の古い建物が廃屋のように建っていたところが、スポーツ公園として整備されたものです。

1日野市市民の森スポーツ公園.jpg

写真は春の日差しの暖かさを感じていただこうと、ややハイキーで撮ってみました。)

現在は1棟のみ取り壊しを免れ残されていますが、「保存されている」という状態とは程遠く、かなり痛んでいます。

2日野養蚕試験場跡 蚕室.jpg

いったいこの建物は何だったのでしょうか?
そしてここは如何なるところだったのか!?

時はさかのぼり明治時代の日本の富国強兵は、生糸の輸出による外貨獲得により成し得たといっても過言ではないでしょう。

1912年(明治45年)農林省は杉並高円寺に「原蚕種製造所」を開設し、その製造所に桑の葉を供給するために、ここ日野市仲田に桑園が作られました。

その後1928年(昭和3年)には桑の葉の輸送の手間を省くために、ここに育種部、栽桑部が移転してきました。
最盛期には、ここに職員とその家族のための官舎や独身寮も立てられ、100人以上の職員が働いていたといわれています。

3日野市仲田の森.jpg

この残された廃屋は、蚕糸試験場日野桑園の第一蚕室として建設されたものです。

戦後化学繊維が台頭し養蚕業が衰退し始めると、蚕糸試験場は組織の再編と合理化により、1980年(昭和55年)につくば市に移転しました。

跡地は南側はスポーツ公園として整備され、北側は仲田小学校が作られましたが、中央部分は、長らく放置され蚕室も2棟が廃屋のように雑草生い茂る中にひっそりと建っていました。

近年「仲田の森」として自然体験学習などが開かれるようになり、整備されて現在に至っています。

4日野市仲田の森.jpg

さて今日の千羽鶴ですが・・・おっと、写真を撮り始めて困ってしまいました。
だって、鶴ってこんなに首が短くないですよね。

まぁ、お許しください。
心をこめて折らせていただきました。

26鶴.jpg

千羽鶴 26/1000


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謎の隧道 ・・・・さわりだけ [東京の坂と橋]

先日浦賀に行く途中立ち寄った目的は、ある隧道探検でした。
住宅街の細い道を歩いていくと、カーブした先に飛び込んできたのが、この隧道!!

21柴隧道.jpg

車が来るのを待ってシャッターを切りましたが、この異様さは少しでも伝わったでしょうか?
あまり道の整備されていない住宅地の中に突如こんなに背の高い隧道が穿たれた理由は?
この隧道が穿たれたのは、大正時代のことです。

この隧道を抜けてさらに進むと、またまた現れた隧道!!
この隧道も住宅街の狭い路地を抜けていくと、突如として黒く大きな口をあけた隧道に行き当たります。

22無名の隧道.jpg

この隧道も非常に異様であることがお分かりでしょうか?
この隧道は、横幅を稼ぐために横に扁平した断面・・・そう、まさに板かまぼこの形をしていて、非常に大きなトンネルなんです。

最初の隧道が縦長だとすると、こちらの隧道は横長ですね。

大型トラック、トレーラーなどが楽に通ることのできる大きさでありながら、ここまでの道は車のすれ違いができないところもあるような道しかありません。

この隧道を抜けた先にあったものは・・・・

23金網.jpg

何かや壁に「GENERATOR SHED」・・・これはいったい・・・?

現在国会図書館をはじめ、色々調べていますので、詳細の公開は今しばらく時間をください。

さて今日の鶴は・・・

23幼鶴.jpg

千羽鶴 23/1000

羽を小さく、首と尾を長く折り幼鳥の雰囲気を出してみました。
普通の形をした鶴と並べてみましょう。

同じ千代紙で折っています。

23幼鶴2.jpg

形の違いがお分かりいただけたことと思います。


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東京の坂と橋 番外編136 称名寺の隧道2 [東京の坂と橋]

前回は、称名寺と金沢文庫は隧道で結ばれていて現在の神奈川県立金沢文庫は、正面玄関を道路に向かってではなく、称名寺と金沢文庫を隔てる稜線に向かって開いていることを書いた。
前回の記事は次のリンクをクリックしてご覧ください。

 東京の坂と橋 番外編135 称名寺の隧道1

今日は、まず次の全体像をご覧いただこう。

12トンネル全景.jpg

写真一番左が、新しい隧道である。

次の写真は、新しい隧道を称名寺側からみたところ。

1新トンネル称名寺側.jpg

次の写真は、金沢文庫側から新しい隧道を見たところ。

2新トンネル金沢文庫側.jpg

そして中央が鎌倉時代に掘られたといわれている隧道だ。
次の写真は、称名寺側からみたところ。

2旧トンネル称名寺側.jpg

次の写真は、金沢文庫側からみたところ。

2旧トンネル金沢文庫側.jpg

この隧道には説明標識があるので、原文のままご紹介する。

この隧道は中世につくられたものです。
称名寺の伽藍が完成した1323年(元亨3年)に描かれた「称名寺絵図」には、阿弥陀堂の後ろの山ろくに両開きの扉があり、その洞門の位置に一致します。

江戸時代隧道の向こう側には「文庫がやつ」という地名があったことが記録されており、鎌倉時代の金沢文庫の遺跡の有力な候補地です。
県立金沢文庫の建設直前の発掘調査では、この隧道に続く中世の道路が検出されております。

なお、東側は風化が進んでいますが、西側は比較的形状を残しており、扉の支柱の痕跡もみられます。
この隧道は、国指定の史跡称名寺と金沢文庫をつなぐ重要な遺跡で、永久に文化財として保存されます。

さらに冒頭の写真の右にもう一つの隧道がある。

8第三のトンネル称名寺側.jpg

金沢文庫側を見てみるが、反対が何処に貫通しているのか様子はわからない。
はたしてなんなのだろう。
中世の隧道と同じくらいの規模で、大人がたって歩ける程度の高さがある。

この隧道群を正面に右手に目をやると、北条顕時(北条実時の子)と金沢貞顕(北条顕時の子)の墓所がある。

11北条顕時の墓.jpg

実はもう一つこの墓所の山側に洞窟が穿たれている。

10第四のトンネル.jpg

入り口は半ば土に埋もれていて、大人が立って入ることは難しいくらいの高さしかない。

これはいったいどうなっているのだろう。
色々ネットサーフィンをしていると、こんな記述に行き当たった。

称名寺の境内では野球などはできないので、山を越えた小さな児童公園で良く遊んでいましたが、称名寺との間に秘密のトンネルがありました。

大人がかがまなければならない位のトンネルですが、称名寺と公園の行き来に使えました。ところがそのトンネルは中で下のほうに行く道が分かれており、洞窟のようになっています。底には池があるとか、どこかとつながっているという話がありましたが、実際はどうだったのでしょう。

出展:称名寺と金沢文庫 http://www.yokokana.net/yokohama/yoko10.html

さらに国会図書館の文書を検索していて『かねさは』と入れて検索したら、一冊の本に行き当たった。

1938年(昭和13年)8月30日に横浜土地新報社から刊行された関靖著『かねさは物語』である。
この本は目次を見ると、金沢地区の旧跡を紹介していて、『称名寺』という項目もある。

以下原文を紹介するが、原文に出てくる金沢文庫は現在の県立金沢文庫ではなく、明治に入って伊藤博文が称名寺の境内に再建した金沢文庫で、関東大震災後鉄筋コンクリートで建て直されたもの。
文中にでてくる『(神奈川県立)昭和塾』が現在の神奈川県立金沢文庫である。

『かねさは物語』218ページに次のような下りがある
この墓所の隣に大きい洞窟がある。奥は可なり深く、池もあり、蝙蝠も住んでゐるが、これは明治時代になってから、硝子瓶の材料を採取するために堀ったもので、古くからあったものではない。この洞窟の前を過ぎると、坂道になってゐる。

かねさは物語の記述は、子供の頃遊んだ秘密のトンネルと

ほぼ一致する。

ということで、第四の隧道は隧道などではなく明治に硅砂を採掘するために穿たれた穴であり、一部通り抜けることができたものだろう。

現在は、入り口近辺は土砂にうずもれている。

それでは第三の隧道はなんだったのか・・・更なる調査をし、もしわかったことがあれば、改めてアップしたい。

さて、なぜ北条実時は、わざわざ山を隔てた場所に金沢文庫を作ったのだろうか。
その答えも同書にあった。

『かねさは物語』225ページ
実時の邸宅の北に戸を立てた穴を描いてあるが、それが今の文庫と昭和塾の間にある隧道で、古くは今の文庫の場所が実時の邸宅のあったところで、昭和塾のある方に文庫が建てられてゐたのである。この隧道は文庫の場所が実時の邸宅のあったところで、昭和塾のある方に文庫が建てられてゐたのである。この隧道は文庫往復のために穿たれたものである。文庫のあった場所を今でも文庫ヶ谷と称してゐる。何故に実時は山を隔てた不便なところに文庫を建てたかといふと、鎌倉は度々火災のあった所で、文献の上に記してゐるだけでも、実時は二度も火災に逢って、折角書写校合した珍籍の一部までも焼失してゐるので、極度に火災を恐れた結果、わざと山を隔てた安全な土地に文庫を立てることにしたのである。而もこの文庫には瓦を使っていたと見えて、この土地からは、いまでも往々北条氏時代の古瓦を採取することが出来る。古図によると、称名寺や実時の邸宅には檜皮を使用してゐたのである。

ということで火災を恐れて、わざわざ山の稜線を隔てた場所に建てたのだ。

さて、ここで称名寺を後にすると、本来この日の午前中の目的の隧道へと急ぐこととなる。

・・・つづく

さて今日の千羽鶴

15鶴.jpg

千羽鶴 15/1000


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東京の坂と橋 番外編135 称名寺の隧道1(追記 地図修正) [東京の坂と橋]

鎌倉時代北条実時は、ここ横浜市金沢に別荘を建てて住んでいた。
その別荘の中に設けた持仏堂が、後に真言律宗金沢山称名寺となる。

3称名寺仁王門.jpg

この仁王門は1818年(文政元年)の再建であるが、仁王像は1323年(元亨3年 鎌倉時代)の作となっている。

4称名寺仁王像.jpg

5称名寺仁王像.jpg

実時は、学問を大変好み、本や書を集めると1277年別荘の山一つ越えたところに建物を建てて収蔵した。
金沢文庫のはじまりである。

歴史的に金沢文庫は「かねさわぶんこ」と読む。
江戸時代以前の古文書には「かねさわ」と記されている。
しかし江戸期に「かなざわ」という読み方が広まる。

水戸光圀が自らの鎌倉旅行を編集させた『新編鎌倉志』(1685年(貞享2年))には「かなざわ」と記されている。
江戸時代諸国の情報が活発にやり取りされるようになり、加賀百万石の「かなざわ」が有名となって、横浜の「かねさわ」も次第に「かなざわ」と呼ばれるようになっていったようだ。

北条氏が滅亡すると、金沢文庫の収蔵品は散逸していく。
特に徳川家康は、江戸城の富士見文庫に多くの資料を移してしまった。

時は下り明治に入ると、伊藤博文は称名寺の境内に閲覧所を建てる
この閲覧所は関東大震災で倒壊してしまうが、1930年(昭和5年)に鉄筋コンクリートで再建された。

昭和40年代に入ると、宅地開発の波が押し寄せることとなったが、反対運動等がおこり称名寺からみた稜線は残され、後に国の史跡として指定される。

昭和50年代に入り、大規模な発掘調査が行なわれ、重要文化財である「称名寺絵図」を参考に、鎌倉時代の姿へと復元された。
その際もともと金沢文庫が立てられていた位置に県立金沢文庫が建設され、中世歴史博物館として称名寺関係の国宝、重要文化財、さらに郷土歴史資料などを収蔵している。

この金沢文庫は非常に面白いつくりであることをご存知だろうか?

正面玄関が、表の通りに面してではなく、裏側の称名寺の境内と金沢文庫を隔てる稜線に向いて作られている。


大きな地図で見る

称名寺から見ると、寺の北側の稜線に穿たれた隧道を抜けると、金沢文庫の正面玄関となる。

1新トンネル称名寺側.jpg

この隧道を称名寺側から抜けた正面が現代の金沢文庫の正面玄関になる。

金沢文庫の境内は横浜市街地の中にあるとは思えない広々とした境内であるが、今日はこの後の時間が詰まっていることから散策はせずに、目的である隧道の見学へと向かった。

6称名寺仁王門.jpg

つづく

最後に今日の千羽鶴です。

9鶴.jpg
千羽鶴 9/1000

以前ご紹介した江戸時代に書かれた『千羽鶴折形』に記されたものは、3羽で折られています。
ところが3羽よりも4羽のほうが簡単に折れるので、時間が無いため4羽で折りあげてしまいました。

9鶴2.jpg

一枚の紙で折っている途中です。

9鶴3.jpg

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東京の坂と橋 四方山話83 江戸の折り紙 [東京の坂と橋]

1797年(寛政9年)京都の書肆吉野屋為八より『秘伝千羽鶴折形』が刊行される。
日本最古の、否世界最古の折り紙の折り方を示した本だ。

1千羽鶴折形.jpg

全部で49種類の連結する鶴の折り方を、完成絵、展開図が記されており、それぞれに優雅な名前とその名前にちなんだ歌が記されている。

2千羽鶴折形.jpg

残念ながら、原本は非常に貴重なもので私が所持しているのは、1976年に復刻された現代のものだ(上の写真)。

それでは折鶴の折り方はいつごろ確立されたのだろうか?
1682年(天和2年)に出版された井原西鶴の『好色一代男』の中で、主人公である
世之介が「比翼の鳥のかたち」をした「をり居(おりすえ)」をつくるという記述があるのが最古のものといわれているので、江戸時代初期にはすでに折り方は確立されていたものと思う。

ただし挿絵に描かれているわけではないので、どのような形をしていたのかはわからない。

話を『折鶴』から『折り紙』に広げると、折り紙の起源は明かではなく、中国起源説、日本起源説、はてはスペイン起源説まである。

ヨーロッパにも独特の折り紙の伝統はあるものの、現在「origami」は世界共通の言葉として市民権を得ている。

いつの頃のことかわからないが、長寿のシンボルである鶴1,000羽折ることで、病気の快癒を願がかなうという風習が生まれた。

最近いつも訪問いただいているある方が病気になった。
そこで一日も早い快癒を願い、一日に一羽の鶴を折っていきたいと思う。
毎日記事の最後にさりげなくその日折った鶴をアップさせていただく。

3鶴.jpg
千羽鶴1/1000

まず最初に折ったのは、鶴の尾の部分が『熨斗』になっているものだ。
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東京の坂と橋 四方山話82 大江戸面白事情1 寺子屋 [東京の坂と橋]

今日も帰宅が遅くなったので、ちょっと手を抜きました。
写真も何も無いのもさびしいので、日曜日に昭和記念公園で撮った写真を一枚!

こんなの原っぱが、すっかり雪化粧していますね。
人がいなければ、この木の大きさはわかりづらいことでしょう。

9昭和記念公園みんなの原っぱ.jpg

江戸時代は、庶民の教育も非常に進んだ時代でした。

江戸の町はおろか、周辺の農村部まで、所謂「寺子屋」が庶民の間に定着しており、子どもたちは、読み、書き、そろばんなどの手習いを寺子屋に通って学んでいました。

この教育は、字の読み方、習字、算数に始まり、地理、歴史や、手紙の書き方なども教えていたようです。

その教育方法は、先生が全員をみるのではなく、年長者が年下のものに教えるというものでした。

後年、ボーイスカウトの創始者で青少年教育の基礎を築いたベーデンパウエルは、その著書の中で「寺子屋」を理想的な教育方法であると言わしめています。

寺子屋への子どもの就学率は、1850年頃の嘉永年間には80%前後にも及んだといわれています。

ちなみに、当時の先進国の就学率は、次の通りです。
 ◆イギリス  20.0% 1837年の調査
 ◆フランス     1.4% 1793年の調査

これらのことから、19世紀半ばにおける日本人の識字率は、世界最高水準にあったと言われ、来日した外国人は驚いたといわれています。

寺子屋の起源は、中世寺院での教育に遡ることから名づけられたものですが、「寺子屋」と呼んだのは主に上方方面で、江戸では寺子屋の「屋」の字が屋号に通じることを嫌い、「手習指南所」とか「手跡指南」と呼ばれていたようです。

・・・つづく


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東京の坂と橋 四方山話81 江戸の町7 二足の草鞋を履く [東京の坂と橋]

今日は昨日の話題に関連付けて、『畳』について何故時代や地方によって大きさが違うのかなど、持論を展開しようと思っていたのですが、Falconさんからのコメントもあり、もう少し調べてからにさせていただきます。

過去のシリーズは、こちらのリンクからご覧ください。
タイトルにリンクを貼り付けています。

No日 付タイトルサブタイトル
12012/04/07江戸の町1江戸の範囲
22012/04/12江戸の町2町人の暮らし向き1 庶民の生活
32012/04/28江戸の町2町人の暮らし向き2 江戸の休日
42012/05/05江戸の町2町人の暮らし向き3 江戸の物価
52014/01/28江戸の町3大江戸ごみ事情1 生ごみ・下肥リサイクル
62014/01/30江戸の町3大江戸ごみ事情2 灰のリサイクル
72014/01/31江戸の町3大江戸ごみ事情3 古紙のリサイクル
82014/02/01江戸の町3大江戸ごみ事情4 古着リサイクル
92014/02/03江戸の町4清掃の歴史
102014/02/04江戸の町5ゴミ事情・・・江戸から東京
102014/02/06江戸の町6間取り・・・江戸から東京


そこで今日は間に合わせにちょっとした話題を取り上げてみました。

二足(二束)の草鞋(わらじ)を履くという意味を正確にご存知でしょうか?
答えは後半でご説明しましょう。

『二足の草鞋を履く』という語源が、実は江戸時代にあったということを知る人は多くないことと思います。

江戸の町は、町奉行所や火付盗賊改方が警察機能を担っていました。
半七捕り物帖や銭形平次などの主人公は、岡っ引き(『目明し』、『御用聞き』、関西では『手先』、『口問』などとも呼ばれました)を家業としているように描かれていますが、実際は正規に任命を受けたものではなく、同心などが利用した『非公認の犯罪捜査協力者』、あるいは同心の『私兵』という位置づけでした。

(地方の領主によっては、岡っ引きを公認していたケースもありますが、江戸の町では、そういうことはありませんでした。)

福禄寿.jpg
Nikon F3 白黒フィルムにて撮影(再掲示)

岡っ引きは、江戸時代、武士である同心が犯罪捜査を行うには、裏社会に通じたものを使わなければ困難であったことから、軽犯罪者の罪を見逃してやる代わりに手先として使ったことが始まりといわれています。

博徒や的屋の親分が岡っ引きになることも多く、『博打打が岡っ引きとなって、博打打を取り締まる』という摩訶不思議なことが起こったところから、『二足の草鞋を履く』という言葉が生まれました。

通常両立しえない仕事、あるいは相反する仕事を掛け持つことをさして使われます。
ですから、昼は学校で教師として働き、夜は塾で講師として働く・・・これは同種、類似の業を兼ねることであり、『二足の草鞋を履く』とはいいません。

岡っ引きの報酬は、非公認であったことから奉行所などから支払われることはなく、仕えている同心から小遣い銭程度しか得ていなかったため、銭形平次のように『岡っ引き専業』となるものはいませんでした。

食うためには『強請り』や『恐喝』まがいの行為をして金を集めていた岡っ引きもいたことから、幕府はたびたび岡っ引きを使うことを禁じますが、実効は無かったようです。

よく時代劇で、お上から『十手を預かる』という下りが出てきますが、実際岡っ引きは常時十手を携帯していたわけではなく、奉行所が必要と認めたときに、その都度岡っ引きに貸し与えていたようです。

江戸時代の犯罪捜査は、自白中心で「冤罪が多かったのではないか!?」と心配する方も多いことと思いますが、冤罪が判明した場合の捜査担当者への処罰は非常に厳しいものがあったことから、実際は、非常に慎重に行われていたようです。

・・・つづく


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東京の坂と橋 四方山話80 江戸の町6 間取り・・・江戸から東京へ [東京の坂と橋]

今日は、間取りについて考えてみたいと思います。

過去のシリーズは、こちらのリンクからご覧ください。
タイトルにリンクを貼り付けています。

No日 付タイトルサブタイトル
12012/04/07江戸の町1江戸の範囲
22012/04/12江戸の町2町人の暮らし向き1 庶民の生活
32012/04/28江戸の町2町人の暮らし向き2 江戸の休日
42012/05/05江戸の町2町人の暮らし向き3 江戸の物価
52014/01/28江戸の町3大江戸ごみ事情1 生ごみ・下肥リサイクル
62014/01/30江戸の町3大江戸ごみ事情2 灰のリサイクル
72014/01/31江戸の町3大江戸ごみ事情3 古紙のリサイクル
82014/02/01江戸の町3大江戸ごみ事情4 古着のリサイクル
92014/02/03江戸の町4清掃の歴史
102014/02/04江戸の町5ゴミ事情・・・江戸から東京


以前『町人の暮らし向き』のところで、町人の暮らす長屋の間取りについてお話ししました。
以下は以前書いた記事の引用です。

町人が暮す一般的な長屋の広さは、間口が2.7m(9尺)、奥行きが3.6m(2間)、面積9.7㎡(3坪=6畳間)という狭さだった。
戸を開けて中に入ると、1.5畳ほどの土間があり、竃があった。
土間に続き4畳半ほどの畳の部屋があった。

さて現在のマンションの間取りをエクセルでちゃちゃっと描いてみました。
この左右二つの間取りの違いは部屋の数ですが、それぞれこの間取りをどうよぶかおわかりですか?

間取り図.jpg

ピンクの色に塗られた9畳の部分をなんと呼ぶかがポイントとなります。

解答の前に、間取りを表現するときに使うアルファベッドについて意味を見てみましょう。
以下、公益社団法人首都圏不動産公正取引協議会が策定した表示規約に準拠します。

 『L』 ・・・リビング   ⇒ 居間
『D』 ・・・ダイニング  ⇒ 食堂
『K』 ・・・キッチン   ⇒ 台所
『DK』・・・・・・・・  ⇒ 台所と食堂の機能が1室に並存している部屋で、
               必要な広さと機能・形状を有するもの
『LDK』・・・・・・・  ⇒ 居間と台所と食堂の機能が1室に並存している部屋で、
               必要な広さと機能・形状を有するもの

次に、それぞれの種類の部屋がどの程度の面積が必要であるかを見ていきます。

部屋の数DK LDK
1部屋4.5畳以上 8畳以上
2部屋以上 6畳以上10畳以上

上の表の面積は、1畳=1.62㎡(壁芯面積)として計算されます。

以上のことから、右の間取りのピンクの部分は『LDK』と呼び、左はピンクの部分が右と同じでありながら、LDKとは呼ばずに『DK』と呼びます。

結果、右の間取りは『1LDK』となり、左の間取りは『2DK』となります。
この基準からすると、左は『2LDK』とは呼びません。

従来間取りの呼び方の基準について明確な定めはありませんでしたが、2011年11月に公益社団法人首都圏不動産公正取引協議会が建物が取引される際の基準として設けたものです。

したがって、賃貸物件にこの基準は当てはまりませんが、基準はこれしかないことから、今後広く定着していくのではないでしょうか。

この基準に当てはめると、江戸の町に暮らす庶民の長屋は、『1K』となりますね。

・・・つづく
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東京の坂と橋 四方山話78 江戸の町5 ゴミ事情・・・江戸から東京へ [東京の坂と橋]

ちょっと江戸の話しを書きすぎているので、このペースだと早晩書くことがなくなってしまいます。
・・・とはいうものの、今日も帰宅するのが遅く、記事を書く余裕も無いため、またまた『江戸』でお茶を濁す・・・というのは脳が無さ過ぎるので、『ゴミ事情・・・江戸から東京へ』と題して近代日本のごみ処理事情について、光を当ててみましょう。

過去のシリーズは、こちらのリンクからご覧ください。
タイトルにリンクを貼り付けています。

No日 付タイトルサブタイトル
12012/04/07江戸の町1江戸の範囲
22012/04/12江戸の町2町人の暮らし向き1 庶民の生活
32012/04/28江戸の町2町人の暮らし向き2 江戸の休日
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52014/01/28江戸の町3大江戸ごみ事情1 生ごみ・下肥リサイクル
62014/01/30江戸の町3大江戸ごみ事情2 灰のリサイクル
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82014/02/01江戸の町4大江戸ごみ事情4 古着のリサイクル
92014/02/03江戸の町5ゴミ事情・・・江戸から東京へ


前回1655年(明暦元年)になると、幕府は深川永代浦をゴミ捨て場に指定したお話しを書きましたが、実にこれが現代のごみ収集につながる画期的な出来事でした。

ごみ処理は、『収集』⇒『運搬』⇒『処理』という過程を経て行われます。
この幕府の施策により、各家庭から出るゴミはいったん長屋のゴミ置き場に集められた後、船着場のゴミ溜めへと集められ、それを船でゴミ捨て場に運ばれました。

当初は長屋の住人たちが船を仕立てて捨てに行っていましたが、そのうち収集、運搬を生業とするものが生まれます。

小石川橋.jpg

程なくして幕府は、公儀指定の請負人以外のものがゴミを収集することを禁じ、後に業者は組合を作り、町奉行所から観察を与えられます。
この制度は、明治維新を越え後述する明治33年まで続くこととなります。

明治に入ると、東京の人口は増加の一途をたどるとともに、開国により海外から様々な伝染病が入ってくるようになりました。
そこで1900年(明治33年)に、『汚物掃除法』が公布され、近代日本における行政によるゴミ処理が始まりました。
・・・といっても現在のように直接処理をするのではなく、行政は業者を監督するだけで、実際は請負人が運搬、処理をしていました。

この汚物掃除法では、台所から出る野菜くずなどの『厨芥』と、それ以外の家庭ごみの『雑芥』に分別して収集するように定められています。

また同法施行規則では、蓋付の容器を用意して『厨芥用可燃雑芥用及不燃雑芥用ニ区分セシムルコトヲ得』とありますから、三種類に分類されていたようです。

厨芥は肥料に、可燃雑芥は燃料に、不燃雑芥は埋め立てに用いられました。
可燃のゴミを焼却処理するようになったのは、1929年(昭和4年)になってからのことです。

東京市は深川塵芥焼却場を作り、ゴミの焼却を始めますが、焼却炉だけでなく野焼きも行われていたようです。

第二次世界大戦が始まると、資材と人手不足からゴミ収集は滞るようになります。
戦時中庭のある家庭では、庭に穴を掘ってゴミや屎尿を生めて処理していました。
しかし、戦争も末期になると、極度の物資不足から逆にゴミはほとんど出なくなってしまったようです。

戦後東京都では、1947年(昭和22年)に厨芥と雑芥の収集を再開します。
やがて高度経済成長期に入ると、大量消費社会となりゴミは増加し続け、ついには1971年(昭和46年)には「東京ゴミ戦争」が宣言され、ゴミが最大の都市問題となりました。

現在では、『食品リサイクル法』、『建設リサイクル法』、『自動車リサイクル法』などが制定され、資源の有効活用の促進が社会的命題になっています。

・・・つづく


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東京の坂と橋 四方山話78 江戸の町4 清掃の歴史 [東京の坂と橋]

日曜日は、ナイアガラに乗務しました。
この日も千客万来、お客様のご乗車が途切れて時計を見上げたら、16時になろうとしていました。

土曜日の疲れもあり、17時に乗務が終わると祐天寺駅前の整体に行って、1時間半かけて全身をほぐしていただきました。
パンパンに張ったふくらはぎも軽くなり、心身ともにリフレッシュ!!

ちょっとのんびりしたら、楽しみにしている皆様方のところへの訪問もおぼつかず、大変申し訳ありません。
今日もちょっと手抜きの記事をアップして、ちょっと早めに休ませていただきます。

過去のシリーズは、こちらのリンクからご覧ください。
タイトルにリンクを貼り付けています。

No日 付タイトルサブタイトル
12012/04/07江戸の町1江戸の範囲
22012/04/12江戸の町2町人の暮らし向き1 庶民の生活
32012/04/28江戸の町2町人の暮らし向き2 江戸の休日
42012/05/05江戸の町2町人の暮らし向き3 江戸の物価
52013/01/28江戸の町3大江戸ごみ事情1 生ごみ・下肥リサイクル
62013/01/30江戸の町3大江戸ごみ事情2 灰のリサイクル
72013/01/31江戸の町3大江戸ごみ事情3 古紙のリサイクル
72013/01/31江戸の町3大江戸ごみ事情4 古着のリサイクル


さてさて『ゴミ』というと、ゴミ処理が大きな問題となりますね。
一説によると平城京がわずか84年で幕を閉じて平安遷都したのは、都市の中で処理しきれなくなったゴミ問題が一因であるとも言われています。

日本におけるゴミ処理の歴史は古く、平安時代には既に掃除に携わる官職が設けられていました。

掃部寮(かもんのりょう)といい、宮中の掃除や調度の設営などを担当していたようです。

また、平安時代に書かれた延喜式(律令(法律)の施行細則のようなもの)を紐解くと、なんと36箇所に『清掃』という言葉が出てきます。
その代表的なものは、「役所や屋敷の前の道の清掃は、自分たちでやりなさい」というものです。

また、「樋を設けて、通水しなさい。汚物を露出させてはいけない。」などの規定も設けられています。
このような決まりを守らない平民は、鞭打ち50回の刑罰が待ち受けていたとか。

さらに驚くなかれ、平安時代の貴族の屋敷の厠(トイレ)は、水洗式でした。
・・・といっても紐を引いて水を流すようなものではなく、屋敷に引き込んだ水路により、常時水を流して、汚物を流していたようです。

また道路や庭園、公共施設を清掃する『清掃丁』と呼ばれる人を、一日米二升で定数36人を雇うということまで、延喜式で決められていました。
汲み取りの厠が発明されるのは、時代は下り鎌倉時代になってからのことです。
(トイレのウンチクを語るのも面白いかもしれませんね(^^))

ここ数回で『江戸時代は、先進のリサイクル社会だった』ということをご紹介してきました。
その江戸時代において幕府は『芥改役(あくたあらためやく)』を配置してゴミ処理にあたらせますが、その裏側にはゴミの不法投棄が後を絶たず、町を綺麗に保つために苦労していた事実があったようです。

1655年(明暦元年)になると、幕府は不法投棄を厳しく取り締まるとともに、深川永代浦をゴミ捨て場に指定します。
以降、江戸時代だけで延125ha(125万㎡・・・東京ドーム27個分)の広さが埋め立てられました。


話は変わりますが、中世において江戸の町は、人口100万を越える世界最大の都市でした。
そして、なんとその世界最大の都市が、世界一清潔な都市でもありました。

江戸時代のロンドンやパリでは汚物は道路に投げ捨てられ、それを掃き寄せて川に流していたようです。
街を歩くといたるところ汚物だらけで、テームズ川やセーヌ川は猛烈な異臭を放つどぶ川でした。

かたや江戸の町を流れる大川(現在の隅田川)は、明治の初め頃までは大川に浮かぶ屋形船は、川の水を汲んでお湯を沸かしてお茶を淹れ、料理を作っていたくらい水は澄んでいました。

また江戸の町人は、湯屋(銭湯)に入り、よく洗濯されたこぎれいな着物を身につけ、こざっぱりとした出で立ちだったようです。
日本人は風呂好きといわれますが、風呂好きになったのは、江戸時代に銭湯が発達した結果とも言われています。

幕末にアメリカから来日したハリス(日本総領事)は、「日本人は、よく肥えていて身なりも良く、幸福そうである。
一見したところ、富者も貧者も見当たらない。」と日記に書き記しています。

こんな江戸の町人に幸福度のアンケートをとったら、意外と高かったのではないでしょうか。

・・・つづく
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東京の坂と橋 四方山話77 江戸の町3 大江戸ごみ事情4 古着のリサイクル [東京の坂と橋]

今日はほとんど皆様がたのところにお邪魔できていません。
明日の準備を優先させていただきました。

明日お話する前半部分は、初めて話す内容なので、うまく時間に収まるか、わかりやすくお話しできるか、ちょっと心配しています(^^;

 

1月31日は、職場の先輩が65歳を迎えてめでたく卒業されました。
そのお祝いの会があって、帰宅がすっかり遅くなってしまいました。
そこで、今日もまた手を抜いて『ゴミの話し』になること、お許しください。

No日 付タイトルサブタイトル
12012/04/07江戸の町1江戸の範囲
22012/04/12江戸の町2町人の暮らし向き1 庶民の生活
32012/04/28江戸の町2町人の暮らし向き2 江戸の休日
42012/05/05江戸の町2町人の暮らし向き3 江戸の物価
52013/01/28江戸の町3大江戸ごみ事情1 生ごみ・下肥リサイクル
62013/01/30江戸の町3大江戸ごみ事情2 灰のリサイクル
72013/01/31江戸の町3大江戸ごみ事情3 古紙のリサイクル


今まで生ゴミ、下肥、灰、古紙・・・と話しをつづってきました。
今日は 『古着』について取り上げてみたいと思います。

反物(布)は全て手織りで造られるため、非常に生産性の低い貴重品でした。
着物は一反の布を無駄なく直線裁ちしてあるので、古着はそのまま売られるケースもありましたが、いったん縫い合わせを解いて反物に戻して洗濯した後、仕立て直して販売されたりもしました。

着物って、最初からリサイクルを考えて作られた優れものだったんですね。
庶民の『衣』は親から子へ、兄姉から弟妹に仕える限り使い回しされました。

再生が不能になると、赤ん坊のオシメとなり、その先は雑巾となって役目を終えることとなります。

一般的にリサイクルのための回収は、回収専門業者が行商をしていましたが、古着の回収は、店を構えて営業スルスタイルでした。
現在の岩本町界隈(神田の東側)に繊維問屋が多いのは、江戸時代に古着屋が並んでいた名残といわれています。

このように再生・循環できるものは、徹底的に利用されるとともに、様々な修理屋さんがいました。
 ◆古くなった箒をした取りして新品の箒を販売するもの、
 ◆欠けた瀬戸物を焼き継ぎするもの
 ◆抜け毛を買い取る『かもじ屋』
など、あらゆる日用品が修理され、徹底的に使い込まれたことは言うまでもありません。

しかし、どんなにリサイクルしても最終的にゴミは出るもの。
江戸時代に不法投棄をする輩がいたことは、今も昔も変わらないということでしょうか。

掘割に不法投棄されたゴミにより、船の運航に支障をきたしたことが間々あったようです。
幕府は不法投棄を取り締まり、リサイクルできないゴミを船で運んで、江戸湾埋め立てに使っていたとは、現代との変わりありませんね。

・・・つづく


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東京の坂と橋 四方山話76 江戸の町3 大江戸ごみ事情3 古紙のリサイクル [東京の坂と橋]

今日も帰宅してお風呂に入ったら、もう日付が変わろうとしています。
そこで、またまた手抜きでごめんなさい。

このゴミのシリーズでは、生ゴミ、下肥、灰ときましたが、今日は『紙』をテーマに取り上げてみましょう。

今までの記事は、次の表のタイトルにリンクを貼り付けていますので、そこから興味のあるタイトルをクリックしていただければ、該当の記事が開きます。

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12012/04/07江戸の町1江戸の範囲
22012/04/12江戸の町2町人の暮らし向き1 庶民の生活
32012/04/28江戸の町2町人の暮らし向き2 江戸の休日
42012/05/05江戸の町2町人の暮らし向き3 江戸の物価
52013/01/28江戸の町3大江戸ごみ事情1 生ごみ・下肥リサイクル
62013/01/30江戸の町3大江戸ごみ事情2 灰のリサイクル


さて、江戸時代には様々なリサイクルを業とするものがいましたが、古紙を集めるのもその一つです。

大棚などの商家を回って古紙を回収するものから、背中に籠を担いで街中に落ちている紙を拾うものまでいました。

集まってきた紙は漉き直すのですが、その行程は概ね次のような手順になっています。

川の水で冷やかして洗う

煮て溶解する

たたいて細かく分解する

漉き直す

洗っただけでは、紙にしみこんだ墨は十分に取り除けないことから、出来上がった紙はねずみ色をしていました。
この紙が所謂『浅草紙』です。

残念ながら未だ訪れたことがないので写真はありませんが、台東区山谷に『紙洗橋』がありました。
(実はこのねたは、『紙洗橋』を取材してからアップしようと思っていたのですが、話の流れから、ここでアップします(^^;っっ)
浅草中心にこの紙のリサイクル業者が集まっていたことから『浅草紙』と呼ばれるようになったようです。

それではこの『浅草紙』は、何に使われたのでしょうか?
浅草紙は、江戸時代には別名『落とし紙』とも呼ばれていました・・・といわれても、まだ判りませんね。

またの名を『ちり紙』といえばお判りでしょうか?
今風に言うと『トイレットペーパー』ですね。
つまりこの事実から、江戸の町の人々は、用を足した後は紙で拭いていたということです。

用を足した後紙を使うのは、世界的にみても先進的文化を持っていたということですね。
現代でも用を足した後は、葉っぱで拭いたり、縄でこすったり・・・

漉いた浅草紙は、約19cm×約21cmの規格に切りそろえられて束にして売られていました。

さて、その浅草紙と同じくらいの大きさのものに、『浅草海苔』があります。
『浅草海苔』というと、江戸前の海苔のことを言いますが、その名前の由来は、諸説あります。
その一つは、浅草の門前で売られたからというものです。
しかし私はこの説よりも次の説のほうが説得力があると思います。

それは、「『浅草海苔』の製法に、『浅草紙』の製法を取り入れたから。」というものです。
江戸時代以前の海苔は、海から採ってきたものを単に乾燥させただけのものでした。
ある日、浅草で『浅草紙』を漉く様子を見て、採ってきたのりを細かく刻み、刻んだ海苔を漉いて乾かして板海苔とすることを発明したことから『浅草海苔』とい言われるようになったというものです。

『浅草紙』は、ティッシュペーパーのご先祖様ですが、一般的なボックスティッシュを広げて、海苔1枚とその大きさを比べてみてください。
どちらもほぼ19cm×21cmで同じ大きさなんです。

『浅草紙』つながりで、もう一つ?
買う気がないのに、売り物を見たり、価格を聞いたりすることを『ひやかす』といいますが、この『ひやかす』という言葉の由来も、実は『浅草紙』から来ています。

冒頭で『浅草紙』の製造工程を説明しました。
その第一の工程で「川の水でひやかして洗う」とありますね。
紙を漉くのに、川からくみ上げた水を貯めた水槽に回収してきた古紙を投げ入れて、2~3時間水を染み込ませて軟らかくします。

この工程を『冷やかし』といいました。
古紙を冷やかしている間職人達は暇になるので、時間つぶしに吉原に繰り出して、遊女たちをからかって帰るだけなので、彼らのことを『紙を冷やかしてきた連中』・・・ということで、買う気もないのに、遊女をからかうことを『ひやかす』と言われるようになったとか。

ゴミの回収の話しが大きくそれたところで、今日はこれくらいにしておきましょう。

・・・つづく


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東京の坂と橋 四方山話75 江戸の町3 大江戸ごみ事情2 灰のリサイクル [東京の坂と橋]

29日は、仕事を18時で切り上げると、職場から都営三田線に飛び乗って、神保町へと向かいました。

そう、ソネブロでお世話になっているsonicさんの個展を見に行きました。
毎年この時期に、ここ檜画廊で開催されています。

1檜画廊.jpg

今年は2月1日土曜日までとなっています。
個展の詳細は、次のsonicさんの記事をご参照ください。
http://yellowsonic.blog.so-net.ne.jp/2014-01-18-1


さて、江戸時代の江戸の町は世界的に見ても先進のリサイクルシステムが確立した街だということをご紹介しました。
過去の記事は次のリンクをご参照ください。
タイトルにリンクを貼り付けてあります。

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12012/04/07江戸の町1江戸の範囲
22012/04/12江戸の町2町人の暮らし向き1 庶民の生活
32012/04/28江戸の町2町人の暮らし向き2 江戸の休日
42012/05/05江戸の町2町人の暮らし向き3 江戸の物価
52013/01/28江戸の町3大江戸ごみ事情1 生ごみ・下肥リサイクル

江戸時代の料理や暖房の熱源は、薪や炭でした。
薪や炭を燃やすと、『灰』がゴミとして残りますが、今日はその『灰』のリサイクルについてお話しましょう。

下肥を使って育成された米は、脱穀した後に『わら』が残ります。そのわらの50%は家畜小屋の厠肥や堆肥になり、残りの20%はわらじ、縄、蓑などの日用品に、残り30%は燃やして燃料とされました。
もちろん、使い古されたわらじや縄、蓑も役目を終えると燃料として燃やされました。

燃料や暖房の用途として薪や炭、わら等を燃やすとでてくるのが『灰』です。
灰の主成分は炭酸カルシウムですが、これは大根などを作るときに必要なカリ肥料となりました。

また日本の土壌は、火山灰が多いため酸性土壌ですが、これは農作物が育ちにくい環境です。
この酸性土にアルカリ性の灰を撒くことによって、酸性土を中和させる働きもありました。

そのほか農業だけでなく、酒製造業で種麹を作る際の添加剤となったり、灰を水に溶いて上澄み液(=灰汁)をとって和紙の製造に使われたり、洗い物の洗剤として使われたりもしました。

そんな貴重な資源となる灰を集める『灰買い』が、各家庭を回って灰を集めていました。


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東京の坂と橋 四方山話74 江戸の町3 大江戸ごみ事情1 [東京の坂と橋]

今日も帰宅してお風呂に入ると、もう日付が変わろうとしています。
そこで以前某誌に連載していたコラムに書き下ろしたものをリメイクして書きました。

さっと過去の記事を振り返ってみましたが、もしどこかで話が重複していれば、読み飛ばしてください。
過去に書いてきた江戸の四方山話は、次のタイトルにリンクを張っていますので、よろしければごらんください。
No日 付タイトルサブタイトル
12012/04/07江戸の町1江戸の範囲
22012/04/12江戸の町2町人の暮らし向き1 庶民の生活
32012/04/28江戸の町2町人の暮らし向き2 江戸の休日
42012/05/05江戸の町2町人の暮らし向き3 江戸の物価

江戸時代は、現代のような大量生産、大量消費の時代ではなかったため、ものは非常に大切にされました。

あらゆるもののリサイクルは徹底していて、紙くずから灰や屎尿までリサイクルされています。
現代でも資源ごみは回収されるようになりましたが、江戸時代のリサイクルの徹底振りは、とても現代でも真似ができないほどです。

小石川橋.jpg

生ごみ、下肥のリサイクル】
江戸時代は元禄年間(1650年頃)に入ると、高度経済成長時代に突入して、人口が急増していきます。
江戸近郊の農家は大量消費をまかなうため、生ごみを地面に埋めて発酵させて土中の温度を上げて、その地面を油紙で覆って熱を逃がさないようにして、野菜の促成栽培をしていました。

また、人の屎尿は窒素やリンを豊富に含んだ有機肥料(下肥)です。
百万都市江戸の町は巨大な下肥の生産地となり、その消費者である近隣の農家は、長屋や商家、武家屋敷と契約して下肥を集め、その代価としてお金や農作物を置いていきました。

それでも下肥は不足しがちで、排泄物はじゃまものどころか貴重な商品として、農家同士で奪い合いになったそうです。

特に長屋の排泄物よりも商家や武家屋敷の排泄物のほうが栄養価が高く、取引される値段も高かったとか!?

同時代のヨーロッパでは、排泄物を肥料にするという発想は無く、窓から道路に排泄物を投げ捨てて、街は汚くコレラなどの伝染病が流行ったりしました。
世界最大の都市であった江戸の町は、世界最先端のリサイクルシステムを構築していたのです。

・・・つづく


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東京の坂と橋 四方山話73 確定申告 [東京の坂と橋]

今日は帰宅が遅くなり、すでに日付が変わろうとしています。
そこで、今日はやっつけ仕事の記事となってしまいました。

そろそろ個人事業主の方々は、確定申告の時期になってきました。
そこでちょっと『税の歴史』について薀蓄でも!

日本における最初の税制は、701年に大宝律令で定められた『租庸調』と呼ばれる制度であることは、皆さん歴史で学ばれたことと思います。

明治維新を迎えると、1873年(明治6年)に地租改正を行い、土地の私有化を認めるとともに、それまで『年貢米』などの物納だった税を、固定資産税として金銭により徴収する方法に変わりました。

現在の税金は、

 ◆財産(固定資産税、相続税、贈与税など)

 ◆消費(消費税)

 ◆所得(各種所得)

に対して課税されます。

日本における消費税の導入は、1989年(昭和64年)のことでした。
導入時は3%でしたが、いまや8%にならんとしています。

それでは所得税が導入されたのは、いつごろのことなのでしょうか。

世界的には、1799年のイギリスにおいて、ナポレオン戦争の戦費を賄うために、公社債の利子に対して源泉徴収制度が導入されたのが、世界初といわれています。

日本においては、1887年(明治20年)のことでした。

時代は、壬午事変(朝鮮事変)を機に、清を仮想敵国として軍備増強の道を歩み始めていました。
増え続ける軍事費を賄うために、所得税が導入されたといっても過言ではないでしょう。

現在サラリーマンは、何か特別な事が無い限り確定申告はしませんね。

年末調整だけで済んでいます。

日本では、日清戦争が終わり日露戦争に向かって暗雲がたちこめていた1899年(明治32年)に、公債の利子に対して源泉徴収制度を導入しています。
 

給与収入に対して源泉徴収制度を世界で初めて導入したのはナチスドイツでした。

日本も日中戦争に突入しその戦費を賄うため。ナチスドイツを範として1940年(昭和15年)に租税特別措置法により『一時的な取扱い』として導入されました。

近代における『税』の導入は、戦争と深いつながりがありますね。


1月25日土曜日は、ナイアガラに乗務します。

よろしかったら、ご乗車ください!


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東京の坂と橋 四方山話72 不動産広告1 『最寄り駅からの所要時間』はどのように決めるのか? [東京の坂と橋]

もしあなたがアパートをさがしている、あるいはマイホームを買おうとしているとしたら、どのような条件をあげますか?
間取り、家賃、周辺の環境・・・たくさんありますが、イの一番にあげるとするならば、交通の利便性ではないでしょうか?

不動産広告を見て「駅から徒歩8分!」と謳われているのに、実際にその駅から歩いてみたら、ホームから駅の外にでるまで時間がかかり、途中大きな国道があって信号を渡るのに時間がかかるは、途中きつい上り坂があるはで、結局電車を降りてから広告の物件まで15分かかった。」というような経験が少なからずあることと思います。

それでは、不動産広告にある『徒歩○○分』というのは、どういう基準で決められているのでしょうか?
昔は、いい加減な不動産広告が横行したため、1963年(昭和38年)に不動産公正取引協議会連合会と公正取引委員会が話し合って基準(不動産の表示に関する公正競争規約)を定めました。

その際、当時20代の女性職員がスカートで中程度のハイヒールを履いて、自宅の庭や公正取引委員会の廊下を歩いて計測した結果が、1分間に80m歩けたのでそれに決まったとのことです。

例えば最寄り駅から分譲地までの所要時間を算出するときは、まず距離を測ります。
距離の測り方は、駅の構内のもっとも目的地に近いところ(必ずしも出口が無くてかまいません)から、目的地が大きな分譲地であったとしても、目的地の一番駅に近いところまでの地図上の道のりを測ります。

それを80mで割って端数を切り上げれば、所要時間の算出完了です。
例えば、駅の目的地に一番近いところから、目的地の駅に一番近いところまでの道のりが800mあったとすると、

 800m÷80m=10分

となります。
電車を降りて、ホームから改札口を抜けて測る基準点まで2分かかっても、また目的地が大規模な分譲地で、分譲地の駅に一番近い基準点から目的地の中の行きたい所まで3分かかっても、途中大きな国道を渡るために3分間信号待ちしても、不動産広告に載せる所要時間は、上記計算結果の10分ということになります。

最近では駅に隣接するタワーマンション(駅から徒歩1分)という物件を購入したのに、朝の通勤時間帯はエレベーターのラッシュで、エレベーターに乗るだけで5分以上かかる・・・といった悲喜劇もあるようですね。

以上のことから、不動産広告に出ている所要時間は目安でしかなく、実際自分の足で歩いて確かめねばならないということです。

所要時間を測る基準は、その他に次のような事項があります。
 (1) 物件の最寄り駅の名称と、最寄り駅からの徒歩所要時間を明示する
 (2) 最寄り駅の名称とバスの所要時間、最寄バス停からの徒歩所要時間を明示する
 (3) 電車、バス等の所要時間は、ダイヤによる
    ただし、待ち時間、乗り換え時間は含みません
    乗り換えを要する場合は、その旨明記する
    特急、急行等の種別を明示する
    通勤時と日中の所要時間が大きく異なる場合は、通勤時間帯の所要時間を明示する 
 (4) 自転車、自動車を利用する場合は、距離と走行に通常要する時間を併記する

というようなことが決められています。

賃貸にしろ、分譲にしろ、不動産を選ぶときは、まずは十分な下調べをした上で、その調べたことを現地に出向いて確認することが重要です。 

それでは、下調べはどんなことをしらべたらよいのでしょうか?
  (1) 土地の歴史
    過去の地形(土地が盛り土(土を盛って整地した)なのか、切り土(土を削って整地したのか)なのかによって、地体力が大きくちがいます
    過去の水害、土砂崩れなどなかったか
    地層・・・東京都の震災時の液状化ハザードマップは沖積地(氷河が削り取った土砂が堆積した土地で、地質学上最も新しい地層)に集中しています
 (2) 周りの環境
    まずはじっくり地図を眺めて、周辺の街の状況・・・買い物の利便性、病院などが近くにあるか、学校は遠くないか、騒音、悪臭の原因となるような施設等はないか

下調べしたら、いざ出陣!
実際に現地に出向いて、調べたことを一つ一つ確かめていきます。
そのほか、現地に出向かないとわからないことなども要チェック
  (1) 日当たり、通風は十分か
  (2) 道の整備状況・・・歩道の有無、街路樹の有無、外灯などの有無
  (3) 駅から物件までの道のりで危険な場所・・・夜は暗くなる、大きな幹線道路を渡る、がけがあるなど
  (4) 上下水道の完備状況・・・本下水が配管されているかどうかは、マンホールを見れば一目瞭然!
  (5) 空を見上げる・・・下や前後左右を見ているだけではなく、上にも注意を向けましょう。
    意外なものを発見することも!!
    たとえば高圧線、隣地から大きな木がせり出してきている等々
  (6) 目的地の前面道路の道幅
    4m無い場合は、要注意!
    建物を立てるときは、建築基準法上の『道路』に2m以上面していないと建てられません。
    万が一4m無い場合は、道が将来4mになるように敷地を後退(セットバック)させて建物を立てるか、そもそも建物が建てられない土地ということになります。
  (7) その他境界杭なども確認が必要ですね。
    境界杭が入っていないと、境界に争いがあるかもしれません。

現地調査もできれば、3回は行きたいところです。
早朝、昼、夜では、街の様相は大きく変わります。


タグ:不動産
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東京の坂と橋 四方山話71 地図2 [東京の坂と橋]

 前回は、住宅地図出版社であるゼンリンは、住宅地図を更新するのに、年間延べ28万人もの人員を投入しているというお話で終わりました。

 ⇒東京の坂と橋 四方山話70 地図

皆さんは自分のご自宅の住宅地図をご覧になられたことがあるでしょうか?
駅員3の自宅の住宅地図は、次のようになっています。

4住宅地図.jpg

これをご覧になると、「曽根風呂さん」の左隣が「駅員3さん」と「石敢當さん」が住んでいるように表記されています。
現代の住宅地図は、江戸時代のように表門を頭にして名前を表記することはありません(⇒四方山話70)から、どこに門扉があるのか判りませんね。

住宅地図最大手のゼンリンが発行している住宅地図は、地図を正置して(北を上にして)読めるように作られていますので、この地図は上が北になります

駅員3の家の門は、西側(敷地の左側)に門がありますが、「駅員3」は決して「石敢當さん」と同居しているわけではありません。
なんで、こんなことになってしまったのでしょうか?

これこそが、「ゼンリンは現地調査を行って住宅地図を作成している」証拠でもあるのです。
まずは、この謎を解く前に、「石敢當さん」についてご説明しましょう。

「石敢當(いしがんとう)」は、中国は福建省が発祥の地といわれる魔よけで、日本でも沖縄から東北まで各地に見られるものです。
しかしながら、内地に存在するものは非常に少なく、圧倒的大多数は沖縄に存在し、現代でもその伝統が受け継がれています。

沖縄では、市中を徘徊するマジムン(悪霊の総称で、動物の姿になったマジムンに股の下をくぐられると死んでしまうという言い伝えがあります)は、真っ直ぐ前にしか進めないため、道の突き当たりにぶつかると、家の中に飛び込んできてしまうといわれています。

そのため丁字路の突き当りには、「石敢當」という魔除けを置くようになりました。
マジムンが「石敢當」にぶつかると、砕け散ってしまいます。

さて、駅員3の家は西側に門扉があります。
そして門扉の脇は丁字路になっていますね。

2駅員3の表札.jpg

そこで、昔沖縄に暮らしていた駅員3は、メイク○○一日橋店で購入してきた「石敢當」を丁字路の突き当たりの壁に貼り付けました。
貼り付けて以来十数年にもわたって
、駅員3は「石敢當さん」と同居することに相成ったわけです。
次の写真は、実際に壁に貼り付けた駅員3の「石敢當」です。

3石敢當.jpg

石敢當は、主に石にその文字を彫ったものが一般的で、ホームセンターに行くと、この写真のような表札に使われる石に彫られたものも売っています。

おそらくゼンリンの調査員さんは、沖縄に行ったことが無かったのでしょう。

また、こんな話しもあります。
ある日くろねこヤマ○の配達員さんが、駅員3のところに荷物を運んできました。
荷物の受け渡しが終わると、配達員の若いお兄さんは、
「ところで駅員3さん、あの表札に書かれている『石敢當』は、なんてお読みするんですか?
この方に荷物が届いたときに、スムーズに荷物を配達できるように、私のアンチョコにお名前をメモしておきたいのです。」

さすがくろねこヤマ○さんは、素晴らしい社員さんをお雇いですね。
ご自身の仕事に誇りを持ち、自らの仕事に工夫を持って取り組んでらっしゃる姿には、感動させられました。
もちろん「あれは魔除けだよ」という説明をさせていただき、二人で大笑い♪

「石敢當さん」が同居者の表札とすると、沖縄には数万人・・・いや数十万人の「石敢當さん」が暮らしていることになってしまいますね。
それくらい、沖縄のあちこちには石敢當が見られます。
しかし、ゼンリンの沖縄の住宅地図に、「石敢當」が記されることはありません。

話しは脱線しますが、沖縄にはもうお一人超有名人である魔除け・・・守護神がいます。
これはもうお分かりですね、「シーサー」です。

シーサーは災いをもたらすマジムンを追い払う伝説の獣で、「獅子(しし)」をうちなー口で言うと「シーサー」となります。

もとは、屋根を瓦で葺くときに、割れた瓦を集めて漆喰で固めてシーサーの形にしたもの1体を屋根の上に置いたのが始まりです。

いつしか内地の狛犬の影響を受け、阿吽の形相の2体を一対として玄関などに飾られるようになります。
駅員3の家のシーサーは・・・写真を撮り忘れたので、いつか機会のあるときにご紹介しましょう。

この笑い話のようなおかしな話しを、いつか琉球新報か沖縄タイムスに投稿しようと思っていたのですが、本日記事に書いてしまいました。

・・・つづく


東京の坂と橋 四方山話70 地図 [東京の坂と橋]

地図といえば、日常生活の中で必要欠くべからざるものですね。
車で知らないところに行くときは、カーナビは威力を発揮します。
カーナビの無い時代は地図帳を助手席において、苦労したものです。

さて、そんな便利な地図ですが、その歴史をちょっと覗いてみましょう。

日本における記録の中で初めて『地図』の記載が登場するのは、平安時代初期に編纂された『続日本紀』です。

続日本紀の記述の中に「天下の諸国をして国郡図を造進させる」とあるので、この頃には地図は誕生していたことと推測されますが、残念ながら現存しません。
もし見つかれば、国宝物ですね。

正倉院の御物の奥から奈良時代の地図でもでてくれば一大発見となることでしょう。

実態の把握できる日本地図として最古のものは、805年(延暦24年)に下鴨神社に奉納された『行基図』であるとされていますが、現存するものは江戸時代の模写です。

さらにこの行基図の模写は、延暦年間には無かった『加賀国』が記されており、信憑性にかけるものです。
そのほか様々な『行基図』やその模写が残されていますが、いずれも信憑性にかけるものが多いようです。

江戸時代になると、今でもよく目にする『江戸切り絵図』が刊行されますが、これなどは住宅地図の元祖とでも言うべきものでしょう。

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上の切り絵図をご覧いただくと、いくつか疑問がわいてくることと思います。
 「なんで名前があちこち向いているんだろう。」・・・記されている名前が天地逆だったり、横向きだったり統一性がありません。
 「名前の頭に■が付いたり、●が付いたり、はたまた家紋がついたりしてるのは何の違いがあるのだ?」

江戸切り絵図のルールを知ると、この地図を見るのも一つ楽しくなってきます。
まず、名前があちこち向いているのは、「表門のある方を頭にして名前を記す」というルールがあるんです。
だから、絵図をみると、どの位置に入り口があるか一目瞭然ですね。

次に
 家紋のついた屋敷が上屋敷
 ■のついた屋敷が上屋敷
 ●のついた屋敷が下屋敷
というルールがあります。

さらに、土地に塗られた色により
 白色・・・武家屋敷
 赤色・・・寺社
 鼠色・・・町屋
 水色・・・堀、川、池など
 緑色・・・森、土手、馬場など
 黄色・・・道、橋
となっています。

いかがですか、ここまで知ると、切絵図を見るのが楽しくなってきますね。

注意深く見ていくと、鼠色に塗られた町屋には町名が記されていますが、武家屋敷には住所らしき記載の無いことに気づくことでしょう。

これは、武家屋敷には住所は無かったということです。 

江戸時代後期の1800年代になると、伊能忠敬による日本地図が作られたことは、皆さんよくご存知の通りですが、シーボルトは、この日本地図の一部を持ち出したことをきっかけに、国外追放となります。

つまり、『地図』は軍事戦略上非常に重要なものでした。

明治になると地図を管轄するのは、陸軍の中に陸地測量部(当初は参謀本部間諜隊と称しました)ができて、正確な日本地図を作成します。

当時一般に公開された地図は、わざと戦略上重要な地点や建物などを間違えて作成したものを公開していたくらいです。

第二次世界大戦後陸軍陸地測量部は、『国土地理院』と名を変えて現在に至ります。

現代の住宅地図は、全国各地にその出版社がありますが、中でも一番多く目にするのが、九州は福岡に本社を置くゼンリンでしょう。

ゼンリンは、別府の温泉街の観光ガイド図を作ったことから始まったという逸話は、NHKのプロジェクトXで取り上げられて、皆様もよくご存知のことと思います。

社名の『ゼンリン』は、「地図は平和でないと作れない。隣近所や隣国と親しくしなければならないから、善隣友好が大切だ」という思いから付けられたそうです。

2011年3月に発生した東北地方太平洋沖地震では、東北地方の街の姿が一変してしまいました。
ゼンリンは、同年9月に調査員80名を岩手、宮城福島、茨城、千葉に派遣して、対象5万戸の調査を2週間かけて調査完了し、2011年中に震災後の仮設住宅を含めた住宅地図を刊行しました。
仮設住宅の表札の出ていないところは、直接住人から聞き取り調査したということですから、内容は正確なものでしょう。

ゼンリンが住宅地図を更新するのに要する人員は、年間延べ28万人にも及ぶと聞きます。
国土地理院の地形図等をもとに調査したデータを加えて作成されますが、このような住宅地図は、世界で日本だけしかありません。

そんな住宅地図も、眺めてみるとなかなか面白いことが見えてきます。

・・・つづく


東京の坂と橋 四方山話69 銀座ナイン(住居表示と地番) [東京の坂と橋]


大きな地図で見る

先日のオフ会の案内の記事をごらんいただいた方で、住所をみて「あれ???」と思われた方も多いことと思います。

その住所は、

中央区銀座8丁目3番先

です。

種明かしをする前に住所についてちょっと考えて見ましょう。

普段私たちが住所と聞いて思い浮かぶのは、1962年(昭和37年)に施行された『住居表示に関する法律』に基づいて付けられたものです。

この住所は、『道路方式』と『街区方式』がありますが、ほとんどの場所で『街区方式』で番号が付けられています。

たとえば、『銀座1丁目(町名)1番(街区)1号(住居番号)』と付けられます。

街区は、道路、川、鉄道など恒久的な施設で区分けされた一つのブロック(法律では3,000㎡~5,000㎡とされています)毎に番号が振られています。

住居番号は、市町村の中心に近い角(概ね市役所に近い方)を起点として、時計回りに番号が振られていきます。

ここでご注意いただきたい点は、『住居』に番号が振られていくという点です。
つまり、建物に番号が振られるのであって、更地(建物のたっていない土地)には住所は無いということです。

更地に新しく家が建つと、市町村が住居番号を決めます。

では、建物の建っていない土地の住所はないのでしょうか?

実は土地には『地番』が付けられています。

地番は、明治に入って地租改正により土地から税金(固定資産税)を徴収するため、土地の所有権を明確にする目的を持って付けられた番号です。

住居表示のように秩序だって付けられたわけではなく、分筆や合筆により連続した番号が必ずしも隣同士にあるとは限りません。

つまり『地番』は土地の範囲の概念を示し、『住居表示』は、位置の概念を示すと考えるとわかりやすいのではないでしょうか。

さて、それでは冒頭の住所についた『先』という言葉にどんな意味が隠されていのでしょうか。

実はこの『先』という意味に、実に多くの悲哀がこめられているのです。

オフ会にお越しになられる方は、新橋駅を利用される方がほとんどかと思います。
新橋駅を東にでて銀座方向に進むと、首都高速会社線の高架下にでます。

この高架下が『銀座ナイン1号館、2号館』というショッピングセンターになっていますが、以前は『新橋センター』と呼ばれていました。

昭和60年に大改装したときに『新橋センター』から『銀座ナイン』に名前が変わりました。

この『銀座ナイン』のテナント宛に郵便を送るときの住所は・・・・実は住所が無いんです。

したがって『東京都中央区銀座8丁目○○番先』という表記になります。

ではなんでここに建物があるのに、住所がついていないのでしょうか?

実はこの全長2.7kmの首都高会社線は、銀座川(外堀)を埋め立てられて造られた建物で、屋上が高速道路になっています。

埋め立てられるまでは、千代田区、中央区、港区、の区堺が川の中央に引かれていました。

ところが埋め立てられて新たに土地が生まれると、どこを区堺とするか決められずに今日に至っているということです。

この首都高速会社線が開通したのが前の東京オリンピックの開催された1964年(昭和39年)ですから、実に50年近くも中に浮いているということになります。

ここに住民登録しようとする人が、今までいなかったことから先送りされてきたようです。

土地の帰属が決まらずに、不都合なことはないのでしょうか?

不動産を所有されている方は、ここで「固定資産税は誰に払うんだ?」と心配になることでしょう。

通常固定資産税は、市町村に納められます。

ところが、東京23区に限っては、地方税法の規定で東京都が課税しているんです。
だから、何区に属するかは関係ないわけですね。

それでは、ここをなんで『新橋センター』から『銀座ナイン』と名前を変えたのでしょうか?

地図をごらんいただくと、『中央区銀座』は8丁目までしかありません。

ここのビルの所有者は、港区でもなく、千代田区でもなく、『中央区銀座9丁目』という住居表示が欲しくて、『銀座ナイン』と命名したとか。

ここ首都高会社線は、新橋から銀座ナイン⇒西銀座デパート⇒銀座インズと名前を変えてショッピング街になっていますが、これらテナントからの賃貸収入により道路の維持管理を行っているため、この区間は無料で走ることができるのです。


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東京の坂と橋 四方山話68 黒電話 [東京の坂と橋]

1878年(明治11年)国産1号電話機が登場しました。
ところが性能が悪かったため、わずか5年で製造中止となります。

その後1896年(明治29年)にガワーベル電話機を経て国産のデルビル磁石式電話機が登場します。
このデルビル磁石式電話機は、第一世代の電話機ですが、第二世代の共電式、第三世代の自動式と平行して昭和40年代まで使われます。

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上の写真は、以前ご紹介した我が家のデルビル磁石式電話機ですが、沖電気製のプレートが付いているものの、製造年月を示すものは何もありません。
おそらく明治後期のものと推察されます。

その後1909年(明治42年)に第二世代の共電式の電話回線導入とともに、2号共電式電話機が登場します。

さらに1927年(昭和2年)になると第三世代の電話として自動式が導入されます。
これにより交換手を呼び出すことなく、相手を呼び出すことができる次代に突入しました。

電話機は、2号共電式電話機を改良したものが使われていました。

その後1933年(昭和8年)になると、いわゆる『黒電話』が登場します。
3号自動式卓上電話機と呼ばれた電話機は、今の電話の形の基礎となりました。

送話口と受話口が一体となり、筐体はベークライト製で、その後戦中、戦後の30年以上にわたって使用されました。

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我が家にあるこの3号自動式卓上電話機は、なんと現役です。
ただ、現役に耐えられるように、受話器と本体を結ぶケーブルは、その後の600形のものに換装されています。

これは富士通信製ですが、製造年月は不明です。
ただ、受話器を置く台とダイヤの形から、戦前のものと推察されます。

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呼び出しのベルの音は後の4号や600形に比べて小さく、実に可愛らしい音がします。
ただ残念ながら、音質はやや落ちます。

1950年(昭和25年)になると、4号自動式卓上電話機が登場します。
性能、デザインとも世界水準を超えるすばらしいもので、「ハイファイ電話機」ともよばれ、我が家では普通に使用しています。

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ダイヤルには日立のマークが入っていて、ダイヤルの下には日立のロゴが入っています。
ダイヤルの下のロゴは、各製造メーカーのロゴが入っているものと、電電公社のマークの入っているものがあります。

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ダイヤルの中心部の注意書きが時代を感じさせますね。

1962年(昭和37年)には600形自動式卓上電話機が登場します。
この電話機でアナログ式の電話としては完成の域に達したと言われています。

いまでもこの電話機を使用しているご家庭があるのではないでしょうか。
1971年(昭和46年)になると600形に黒だけではなく、ホワイト、グレー、グリーンの三色が登場します。

しかしながら自分の好みの電話機を自由に選べるようになるのは、1985年(昭和60年)まで待たなければなりません。

3号も4号も停電になっても電話線から供給される電気で動くため、電話回線が生きている限り通話ができます。

最後に先日もご紹介した我が家の赤電話をご紹介しましょう。

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東京の坂と橋 番外編134 長坂橋の笠地蔵 [東京の坂と橋]

多摩川の支流に乞田川という一級河川があります。
 

小田急多摩線唐木田駅近くから流れ出ると、多摩ニュータウンの中心部を流れて、関戸橋のところで多摩川に流れ込んでいます。

乞田川は、別名長坂川とも呼ばれ、唐木田の源流に近いところを通っていた八王子往還には長坂橋という橋が架かっていました。

現在は、ニュータウン開発により、鶴牧西公園のところから暗渠になってしまい、現在では橋はありません。

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この暗渠をたどって上っていくと、不思議なものが目に入ってきます。

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1700年(元禄13年)、長坂橋の袂にお地蔵さまが建立されました。

そのお地蔵さまをお守りするようにツゲの木があたかも笠のように被いたことから、何時の頃からか『長坂橋の笠地蔵』と呼ばれるようになりました。

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また、身代わり地蔵とも子育て地蔵とも呼ばれて、古来人々の信仰を集めてきました。
なんとも純朴なお顔をしていると思いませんか!?

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お顔など風化の目立つ部分もありますが、衣のレリーフははっきりしていて、全体的にはいい状態を保っているようです。

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ニュータウン開発により、ほとんどのお地蔵さまや、石仏、石塔が移動してしまいましたが、この長坂橋の笠地蔵は、一時仮移設されたものの元の位置に戻り、300年以上も変わらぬ姿を見せてくれています。


タグ:石仏

東京の坂と橋 四方山話67 公衆電話・・・電信電話記念日 [東京の坂と橋]

3デビル磁石式端子.jpg日本で電話事業が始まったのは、1890年(明治23年)のことである。
東京横浜に電話局が設置されると、自宅や会社に電話機が無い人のために、公衆電話が設置された。

電話局以外に公衆電話が設置されたのは、1900年(明治33年)上野駅の駅長室前と新橋駅の中等待合室前に設置されたのが、初である。

同年には、京橋の屋外に六角錐型の木造の電話ボックスの中に設置された公衆電話が、屋外初である。

当初の公衆電話の通話料金は、5分間15銭であったという。
当時米10kgが80銭くらいであったというから、現代に引きなおすと、米10kgを3000円とすると、560円程度となる。
この値段が高すぎて利用者が伸び悩んだため、程なくして5銭に値下げされた。
現代人にしてみれば、それでもちょっとお高い水準だ。

電話事業が始まった当初は、交換手を呼び出して番号を告げ、繋いでもらう方式であったが、1926年(大正15年)になると、自動交換機が導入されてダイヤル式通話が始まる。

右上の写真と次の写真は、我が家のデビル磁石式電話だ。
下の写真は、電話機のふたを開けたところ。
大きなU磁石がひっくり返って3つ入っている。

4デビル磁石式端子.jpg

2デビル磁石式端子.jpg

5赤電話.jpg交換手を呼び出す方式は、なんと1979年(昭和54年)まで続いた。

家庭に電話が普及する以前は、電話のある家にお願いして、「○○様方呼び出し」と称して人の家の電話番号を使わせてもらったりしていた。 

電話をかけるときは、「○○様ですか。あの◇◇さんを呼び出していただきたいのですが。」とお願いしたものだ。

またかけるときも公衆電話まで行かなくても電話のある家にお邪魔して、市内通話だったら10円を置いてお借りした。
(昔市内通話は、何分かけても10円だった。)

また市外通話であれば、交換手を呼び出して繋いでもらい、相手が出ると話しをする。

通話が終わって受話器を置くと、交換手から電話がかかってきて、「ただいまの料金は○○円でした。」と告げられ、その金額を置いてくるといったような習慣が出来上がっていた。

戦後公衆電話ボックスを増設するには経費などの問題があり、商店などに委託型して設置する公衆電話が、1951年(昭和26年)に登場した。

しかし料金などのトラブルが絶えず、1955年(昭和30年)(資料によっては赤電話は1954年(昭和29年)に導入となっている)に硬貨を投入して通話する赤電話(通称ダルマ)が登場した。
しかしダイヤル市外通話は出来なかった。

1961年(昭和36年)になると、ダイヤル市外通話が可能な大型の赤電話が登場するが、しばらくの間は、ダイヤル市外通話ができない赤電話も並存した。

上の写真の赤電話には、胴体の部分に『ダイヤル次回通話もかかります』と表示されている。

今回我が家にお迎えした赤電話は、1971年(昭和46年)10月 田村電機製の『670-A1』で、もちろんダイヤル市外通話可能である。

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実に見ているだけで、色々と語りかけてくる表情豊かで不思議な電話だ。
あるときは、嬉しい話を、またあるときは、悲しい話をこの電話機は伝えてきた。

その時の重みに何時しか生命が宿ったようだ。


タグ:公衆電話
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東京の坂と橋 番外編133 昭和34年 東京路線図(交通案内図) [東京の坂と橋]

今日は朝からボーイの会議でした。
まだまだ報告書作りなどやること盛りだくさんなので、今日も私のコレクションをご紹介して終わりたいと思います。

今日ご紹介するのは、1959年(昭和34年)当時の東京の交通路線図です。
今は無き第一銀行・・・現在は第一勧業銀行を経てみずほ銀行・・・の頒布品で、東京近郊の支店を併記した交通路線図です。

東京地図0.jpg

第一銀行のシンボルマークは、ダブルスターだったんですね。
そして、第一銀行のロゴがなんとも可愛らしい文字で描かれています。

今から54年も前のものなんですね・・・というか幸い50年を超えているので、アップさせていただきます。

まず表は、『東京交通案内図』です。
北から西にかけては山手線、東は荒川の範囲が描かれています。

東京地図6.jpg

地下鉄は、銀座線と丸の内線しか描かれていません。
バス路線は載っていませんが、都電とトロリーバスの路線が描かれていて、網の目のように走り回っていたことがわかります。

大手町に『第一銀行本店』が記されていますが、ここには昭和56年まで、大理石製のエンタシスの柱が並ぶ、壮麗な建物が建っていました。

勝鬨橋が跳ね上がっていますね。
そこに向けて、貨物船が通過するようです。

そして、勝鬨橋のすぐ上流に『佃の渡し』があります。
乗ってみたかったなぁ・・・・

裏面にいくと、『東京近郊交通案内図』となっていて、西は大月、北は沼田から桐生、佐野、栃木宇都宮、東は水戸、成田まで描かれています。

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これだけ広範囲にカバーされていると、もう廃止されている路線がいくつか描かれています。
たとえば、九十九里鉄道が東金から片貝まで描かれていますね。

東京地図3.jpg 

都内でも多くの廃止路線が描かれています。

東京地図5.jpg

たとえば三鷹駅から北に伸びている旧国鉄武蔵野競技場線。
戦前中島飛行機の工場に伸びていた引込み線を利用しています。
戦後国鉄スワローズ(現ヤクルトスワローズ)が1シーズだけ本拠地にしたことがあります。

そして国分寺から東京競馬場駅までの旧国鉄下河原線(東京競馬場線)が描かれていますが、な、な、なんと赤い線(黒が国鉄、赤が私鉄)で描かれ、そこには『西武多摩湖線』として描かれているという、とんでもない間違えを発見してしまいました。

さっそく間違えを指摘しなければ・・・えっ、誰に言うの!?

さらに中央線を下ると、現在の『京王八王子駅』は『東八王子駅』、『高尾駅』は『浅川駅』と記されています。
そのほかあちこちの駅の名前が変わっていますね。

目を南に転ずると、二子玉川から砧まで東急砧線が描かれています。
この頃は未だ田園都市線が開通する前で、渋谷からオバQの愛称で親しまれた路面電車が走っていましたね。

田園都市線が計画線の時代、二子玉川から砧線を通って小田急線喜多見駅に乗り入れる計画もあったとか!?


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