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東京湾要塞の一翼をになう『厠』の謎 [煉瓦研究ネットワーク東京]

31十勝監獄.jpg◆ 近況

おかげさまで、昨年より月1回ペースで講演等させていただいております。

今年に入り、1月に豊中市で一般市民向けの防災・減災についての講演会を、2月には帯広で企業向けにリスクマネジメントに関するお話しをさせていただきました。帯広の講演は、ちょうど12月に政府が『千島海溝大地震切迫』との発表の後ということもあり、多くの経営者の方々に熱心にお聞きいただきました。

左の写真は、帯広に行ったときに、十勝監獄の石油庫跡を見てきた時のものです。公園の中にあるのですが、人が立ち入らないところは腰高まで雪が積もっていて、ラッセルしながら撮ってきました。

 

3月は23日と24日に泉佐野市で、災害時に如何に生き延びるのかという観点からのサバイバル講座第2回、第3回をやらせていただきます。

第1回は昨年の夏に『水の確保』という観点から、飲料水などの確保が如何に難しいか、そして熱中症予防についてお話しをさせていただきましたが、第2回は『体温の保持』ということで、本当はもっと寒い時期にやりたかったのですが、日程が合わず春休みになってしまいました。

第3回は『食の確保』ということで、皆さんで屋外に飛び出して、野草を積んできて料理を作ります。どうですか、面白そうでしょう♪

さらに24日にはなんと『折り紙教室』合わせてやらせていただきますので、それも含めれば3月の泉佐野市さんでのお話しは3本建てとなります。

 

4月には東京と大阪で、企業向けに災害対策に関する個別相談会を、やらせていただくことになりました。大阪は4月20日金曜日にお邪魔します。

そうそう4月には、金沢にもお邪魔します。今年の夏に能登半島の突端にある珠洲市で第17回の日本ジャンボリーがありますが、その準備や現地との調整等で金沢入りします。

4月8日は@くまらさん、よろしくお願いします(^_-)☆!!

いまのところ5月以降の講演などの予定は入っておりません。

日程があえばどこにでも・・・行ければ・・・おじゃましますよ!!

皆様方からお声がかかるのを、首を長くしてお待ちしております。


今日の本題は『厠』です。今どきの若い方は『厠』といっても判らないでしょうね。

『厠』とは奈良時代からその用例があるようで、昔は水の流れの上に掛け渡して用をたす場所を作ったことから『川屋』が『厠』になったという説があります。中世の貴族の家の『厠』は常に用を足したものが落ちる場所には水を流していたということですから、水洗トイレだったのですね。

また、字を見ると何となくイメージができると思いますが、近世まで日本のトイレは母屋に隣接した外に設けることが一般的であったことから、『側屋(かわや)』が厠になったという説もあります。

 

なんでまたその『厠』が???

そう、今回もまた『煉瓦』ちゃんのお話しです。

昨年3月にも泉佐野市さんで講演をさせていただいた際、友ヶ島に渡ったことは既にお知らせ済みですが、その時に友ヶ島の隣の虎島にある堡塁を探訪したときに、煉瓦造の厠の遺構が比較的良い状態で残っていたことが、事の始まりです。このときすっかり『厠』のとりこになってしまったのでした!!

そんな『厠』が、虎島まで行かなくても、なんと横須賀にもあるということを聴きつけた僕は、行きたくて行きたくてしょうがなかったのですが、ようやく2月の初めにソネブロきっての刻印ハンター@ちょいのりさんをさそって横須賀は観音崎砲台へと向かったのでした。

でも実は観音崎砲台に行く前に寄った千代ケ崎砲台の方がメインになってしまったのは、ご愛嬌。

11千代ケ崎.jpg

上の写真は、千代ケ崎砲台の棲息掩蔽部と砲側弾薬庫の隧道。

右上に小さな煉瓦アーチの入り口がありますが、ここに入ると、奥で右に折れ、突き当りにある換気口をなんと各種の刻印のある耐火煉瓦で埋められています。・・・誰がやったのかなぁ・・・なんで埋めたのかなぁ・・・

おっと、話しを元に戻して、それでは『厠』のお話しのはじまりはじまり♪


◆虎島堡塁附属施設の厠

虎島堡塁は、紀淡海峡に侵入してくる外敵から商都大阪を守る為に築かれた由良要塞を構成する砲台の一つだ。隣接する友ヶ島においては、第3、第4砲台には、将校用の家屋が残っていることから、そこには『便所』があったものと推測できる。その他は、第5砲台入口に立っている門柱を入ると、すぐ左手に厠のようなそれらしい煉瓦造一部木造瓦葺の建物があるが、それが『厠』かどうかは未確認である。3月にも友ヶ島に行く予定なので、ぜひとも確認してみたい。それ以外には当時の『厠』の遺構は知る限り見当たらない。

21虎島軍道.jpg


写真は、友が島から虎島を見たところ。

明治時代に造られた軍道は台風で中央部分が破壊され、今では干潮時に崩れた瓦礫の上を伝って渡るしかない。

虎島堡塁は明治28年10月に着工し、明治30年2月に竣工している。友が島からこの軍道を渡って虎島に入ると左手から山に続く道がある。九十九折の道を登ること10分くらいで堡塁入口の煉瓦造りの門柱に行き当たる。

厠は、その手前右手に半ば雑草に埋もれるように立っていた。明治27年5月に改定された『砲台建築仕法通則』に則って建てられている(近代築城遺跡研究会編由良要塞 Ⅰ 95ベージ)ことから、虎島堡塁の建設時に付属施設として造られたと考えていいだろう。煉瓦積みはオランダ積みだ。

屋根は完全に落ちているものの、梁等の木材の破片や瓦の破片が残されていることから、屋根は瓦葺だったようだ。次の写真は、小用側から大用を見たところだ。上部に梁の一部が残っている。

23虎島厠1.jpg

 

25虎島厠3.jpg

出入り口は前後に2か所、アーチづくりの入り口があり、中に入ると、海側に小用スペースとなっており、目の高さの位置は煉瓦を抜積みしていて、市松模様に小窓が開いている。山側には大用があり、おそらく便壺の上あたりに汲み取り用の四角い窓が開き、顔の高さくらいの場所に十字に抜積みの窓が開いている。汲み取り窓の数から、大用には4つの個室があったことが分かる。

次の写真は、大用から小用の方を見たところ。

24虎島厠2.jpg

抜積み部分には十数個の刻印が確認できる。これは堺煉瓦の刻印だ。

32虎島厠刻印1.jpg

 

33虎島厠刻印2.jpg

外には、手を洗う場所なのだろうか、コンクリート製の台があるが、貴重な水は雨水を溜めていたのだろう。このすぐそばに監守衛舎の遺構と推測する土台のみの遺構があるが、ここにはコンクリート造りの濾過・貯水槽が見られた。


26虎島厠5.jpg
次の写真が、監守衛舎跡の脇にある雨水などを集めて飲料水にするためのろ過水槽である。

22虎島浄水施設.jpg


◆観音崎砲台の厠

観音崎に行く前に色々調べたが、厠に関する資料は前掲『近代築城遺跡研究会編由良要塞』に取り上げられているものしか見つからなかった。

同書では、明治24年9月に陸軍大臣に提出された『砲台附属厠建築之件』において、「東京湾防御砲台の中で厠があるのは第一海堡のみで、観音崎砲台に2か所、米ヶ浜砲台に1か所厠を建設する必要がある」と述べていることから、観音崎の厠は明治24年以降のものだろうと推測している。この文献は、最後に私なりに解読したものを載せているので、もし違っていればご教授願いたい。

10指令案.jpg

現地に赴くと近くの駐車場に車を止めて、徒歩で目指した。

高さ2m位のほぼ垂直な石垣をよじ登ると、鬱蒼とした雑木林の中をやぶ漕ぎしながら進む。小さな谷戸を登っていくと、それは突然現れた。

1観音崎第一厠.jpg

谷戸に平行するように配置され、谷川と山側にアーチ状の入り口が開いている。

虎島の厠は通路を中心に配し、左右に小用と大用を設けていたが、ここは片側に大用のみ設けているため、入口は谷から向かって右側にオフセットされている。

2観音崎第一厠.jpg

ぐるっと周囲を回ると、山川の入り口の壁は上部が崩れているものの、屋根の梁材や瓦は見つからなかった。

虎島の厠と同じく大用の壁には十字の抜積み窓が開いているが虎島のものとは異なり、上部に煉瓦を5個使用して小アーチを造って装飾している。


そして何よりも驚いたのは、フランス積みなのである。要塞建築における煉瓦積みは、明治20年以降はイギリス積み、あるいはオランダ積みへと変化している。

積み方といい、十字の抜積み窓の手の込んだ小アーチといい、明らかに明治10年代の建築と思われる。

使用されている煉瓦を観察すると、小菅集治監の桜の刻印が多くみられる。

3観音崎第一厠.jpg

続いて向かったもう一つの厠も、雑木林をやぶ漕ぎしていくと、小さな谷戸に今度は直角に交わるように立っていた。

残念ながら、荒廃は進み、山側の壁と左右の出入り口の一部の壁を残して谷側の壁は谷に向かって倒れている。次の写真は山側から残っている壁を撮ったのだが、後ろに木などがあり、下がることができず、超広角で撮影している。

9観音崎第二厠.jpg

 次の写真は、谷側から山側に残った壁を望んだところ。最初の厠と違い、内側にモルタルが塗られている点だ。

8観音崎第二厠.jpg

最初に見たものと全く同じ構造で、谷側に通路を配し、山側に大用の個室を設けて、下には汲み取り用の窓が、上には十字の抜積み窓があいていて、小アーチで装飾されている。こちらも明らかに明治10年代の造りと思われる。次の写真は、左手が山側で、右手の壁が切れている部分にアーチ状の入り口があった。

7観音崎第二厠.jpg

この2か所の厠から一番近いのが旧第3砲台だ。旧第3砲台は、明治15年に着工されており、砲側弾薬庫や通路などはフランス積みで造られていることから、旧第3砲台の附属施設として同時期に建てられたとすれば、辻褄は合う。次の写真は観音崎旧第三砲台である。

4観音崎旧第三砲台.jpg
5観音崎旧第三砲台.jpg

上の写真は、砲側弾薬庫から旧第三砲台へと続く隧道で、おそらくここから弾薬をあげたものと思われる。

さて、本当に東京湾防御砲台・・・後の東京湾要塞に、明治24年当時第一海堡にしか厠はなかったのだろうか?

その当時存在した猿島砲台に、たしか厠の遺構があったはずだ。

帰宅後過去に猿島砲台を訪れた時の資料をひも解くと、浜から切通しを上っていくと、切通しの中ほどに右に弾薬庫、左手に厠跡があった。

ところが右手の弾薬庫はフランス積みであるが、左手の厠の壁は写真で見る限りオランダ積みで積まれていて、明らかに築造年代か違う。おそらく厠は、明治20年代以降に造られたものなのだろう。

この不整合の謎を如何に解き明かすのか、この謎解きが面白くて煉瓦探訪は止められない。



以下文献を打ち直してみたものだ


工第一00号

受領番号伍第六四一号

庁名 工兵第一方面

件名 砲台附属厠建設の件

提出 二十四年九月一日

指令案

伺の通

 

砲台附属厠建設の義に付き伺

一金五百三十一円四十八銭 厠三か所建設費

 メ

東京湾防御砲台期成の分にして厠の設あるは目下第一海堡のみにして他砲台に在りては未だ其の設無の右は有事の際適宜其場所を見計らい仮厠建設可致見込に有これ●●観音崎及び米ヶ浜両方台の如きは要塞砲兵演習の為め多数の兵員出入り致し候に付き平索と●●厠の設置必要に付観音崎砲台内に二か所 米ヶ浜砲台内に一か所適宜場所を選定し別紙説計及び図面の如くに建設致し度右費用取調候処本行の金額を可要候御許可の上は本年東京湾要塞砲台建設費の内より支弁致候因て別紙調査図書○添此の段御伺候也

 明治二十四年八月一三日

   工兵第一方面提理佐々木直前

陸軍大臣子爵髙嶋勤之助殿

 

千代ケ崎砲台のことも書き記そうとしたのだが、これだけでかなり長くなってしまったので、千代ケ崎砲台のことは、また日を改めたい。

 

12千代ケ崎.jpg





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